大アルバニア主義は起こり得るか?

クリストフ・シクレ(Christophe Chiclet)
「地中海の合流」誌編集委員、
近著にベルナール・ラヴネルとの共著『コソヴォ、その罠』
(ラルマッタン社、パリ、2000年)

訳・柏原竜一

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 3月の終わりに、ユーゴスラヴィア軍がセルビア南部へ展開し、マケドニア軍がテトヴォ高地への攻撃を始めたことにより、アルバニア系のゲリラは守勢に立たされた感がある。しかし、これで状況は決したのだろうか。コソヴォで行き詰まったコソヴォ解放軍は、「大アルバニア」の実現に向けて新たに行動を起こす道を選んだ。マケドニア国内にも多いアルバニア人は、法の下での形式的な平等にもかかわらず不満を募らせており、彼らの行動に賛同する者も現れている。皮肉なことに、あの戦争から2年たった現在、NATO(北大西洋条約機構)は解放軍を封じ込めるのに、ユーゴ政府とマケドニア政府の加勢を期待している。[訳出]

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 コソヴォにおける最初の自由選挙が行われた2000年10月28日(1)から1カ月後、、アルバニア問題はまずセルビア南部、次いでマケドニア北部を舞台として新たな展開を見せた。コソヴォ解放軍をモデルとする新手のゲリラが出現したのだ。彼らは、これらの地域に住むアルバニア人の解放を主張している。しかしながら、状況は、10年間ミロシェヴィッチ前大統領の圧政に苦しんだコソヴォのそれとはまったく異なっている。セルビアは2000年10月5日の連邦大統領の交代以来、民主制への道をたどり始めている。マケドニアに関していえば、アルバニア系の政治勢力が1991年の独立以来、連立政権に参加している。

 この二つの新手のゲリラはほぼ同時に現れた。プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍(PMB解放軍)は2000年2月4日にセルビア南西部に、マケドニア民族解放軍は同年1月20日にマケドニア北西部に現れた。手始めは爆弾事件だった。次いで、PMB解放軍はコソヴォとセルビアの間の幅5キロ、全長30キロに及ぶ非武装地帯に侵入した。この非武装地帯は1999年6月9日の協定によってセルビアの警察と軍の立ち入りが禁止されていた。

 ゲリラは、計7万人のアルバニア系住民が住み、アルバニア系が多数派を占める3つの町、プレシェヴォ、メドヴェジャ、ブヤノヴァツを手中に収めようと企てた。彼らはこの近辺の境界線を管理するKFOR(コソヴォ国際部隊)アメリカ部隊の放任につけこみ、前線活動を激化させている。しかしながら、ミロシェヴィッチ時代とは逆に、セルビアは抑圧によってではなく交渉によって対処している。そこで急進派は、新たな戦線を開くという道に走ったのだ。

 こうして、マケドニア民族解放軍が初めて表舞台に姿を現し、2001年2月16日にマケドニア、コソヴォ、セルビアの境界線沿いにあるアルバニア系の離村を支配し始めた。急進派が望んでいるのは、コソヴォ解放軍の「戦果」にならって、欧米諸国の関心を再びアルバニア問題に向けさせることだ。しかし、軍事的状況が悪化しているにもかかわらず、マケドニアでも、セルビアでも、関係当局は穏健政策をもって臨もうとしている。

 欧米はコソヴォの不安定な均衡が再び危うくなりかねないことを理解した。KFORはコソヴォ州境のコントロールを強化し、北大西洋条約機構(NATO)はセルビア軍が非武装地帯の限定地域に立ち戻ることを許可した。マケドニア政府に対してもヨーロッパ各国は全面的な支持を与えている。PMB解放軍は3月13日、ユーゴ政府との停戦協定に調印したが、人口の30%をアルバニア系が占めるマケドニアでは、状況は混沌としている。マケドニア民族解放軍は3月15日には、第二の都市テトヴォの郊外にまで戦闘を拡大した。

 アルバニア系ゲリラの再燃を理解するためには、1998年の秋に遡り、危機の原因とアメリカのバルカン政策の変更を振り返る必要がある。当時、ミロシェヴィッチ大統領はもはやデイトン協定を結んだ時のような交渉相手ではなく、コソヴォ解放軍はもはや大アルバニア主義を掲げる民族主義的マルクス・レーニン主義運動ではなかった。そして99年3月24日にNATOのユーゴ空爆が始まった。セルビア軍がコソヴォから撤退した翌日の6月10日、国連の安全保障理事会は決議1244号によって、主権はユーゴに残したままコソヴォを国際管理下においた。6カ月に及んだユーゴとの戦闘で解放軍が被った軍事的打撃は、戦闘員数百人の喪失にとどまった。逆に、彼らのロマン主義的ヒロイズムのおかげで志願兵はふくれあがった。マケドニアのアルバニア人が千人、セルビア南部から数百人、それに西ヨーロッパからも志願兵はやってきた。

 事実上の独立を果たしたコソヴォ州では、かつてのゲリラが実権を握った。そしてセルビア人、ロマ人(ジプシー)、ゴラニ人(2)などの少数民族を追い払い、あらゆる種類の密貿易にいそしんでいる。解放軍の一部は、99年9月21日にコソヴォ防護隊に再編された。この組織は公式には軍事組織ではないが、実質的にはコソヴォの首相を名乗るハシム・サチ氏の私兵である。解放軍のゲリラたちは、勝利の余勢をかって政治的進出を図ろうとする。同年10月15日、サチ氏はコソヴォ民主進歩党を設立、数カ月後にコソヴォ民主党と改名する。この党は解放軍の政党として、「ルゴヴァ主義」に失望した住民から支持を集めた(3)。解放軍の政治部門の中核であったアルバニア人民運動は、サチ氏の新党への合流を受け入れた。これらの活動家は、コソヴォの法的な独立を求め、セルビア、マケドニア、モンテネグロのアルバニア系住民を支援するという政治方針を固守しようとした。

急進派の選択

 実際的なサチ氏は、人民運動の固執する大アルバニア主義を放棄した。これに対し、人民運動スイス支部のメンバーであり、次いで解放軍の将校となったラムシュ・ハラディナイ氏は2000年3月に民主党を離脱、コソヴォ未来への連合を創設した。この連合はあらゆる不満分子を再結集しようと試みた。行き場を失った解放軍の兵士、人民運動の理論的指導者、「ルゴヴァ主義」へかねてから反対する勢力、さらには共産主義者同盟の旧幹部までもだ。セルビア南部とマケドニア西部の解放を求めるアルバニア系民兵も集まってきた。同年10月28日の地方選挙当時、連合は急進派政党の様相を呈していた。

 連合は選挙に当たり、平和主義者イブラヒム・ルゴヴァのコソヴォ民主連盟に簡単に勝てると考えていた。というのも彼は空爆下でミロシェヴィッチ大統領と裏取引したことで信用を失っていたからだ。実際には、ゲリラ活動から生まれた二つの政党の人気は衰えていた。密貿易、恐喝、暴力的報復、強権的な支配は、平和を望むコソヴォ住民とは相容れなかった。選挙結果は歴然としていた。ルゴヴァ氏の民主連盟が58%を獲得したのに対し、サチ氏の民主党は27%、ハラディナイ氏の連合にいたっては8%の得票しか獲得できなかった。

 この失敗に失望した人民運動の活動家たちは再び独立を主張し始めた。2000年7月22日、プリシュティナで開かれた第5回総会で採択された綱領はまったく明瞭だった。「民族の一部はなおもセルビア、マケドニア、モンテネグロの抑圧者の桎梏の下におかれている。(中略)バルカンにおけるアルバニア問題はいまだに解決されていない。マケドニア、モンテネグロ、そしてコソヴォ東部におけるアルバニア人の状況は、抑圧にあえぐ人民の状況に等しいのである。(中略)コソヴォのアルバニア人民は独立を志向し、アルバニア人が多数派を占める全ての地域を包含する国家を形成しなければならない(4)

 すでに4カ月前から、人民運動はセルビアにPMB解放軍を展開すべく、国外に散らばった同胞から資金を集めていた。PMB解放軍の軍事指導者、シェフケト・ハサニ氏はコソヴォ選挙の直前にスイスに現れ、ゲリラ活動の資金になるはずの150万スイス・フラン(約1億1000万円)を横領したといってサチ氏を批判した(5)。2000年8月26日から27日にかけて、人民運動はスイスで新たに会合し、指導部を一新した。海外支部の書記長にはマケドニアのアルバニア人、ファズリ・ヴェリウ氏が選ばれた。彼は、当時はまだ地下活動を続けていたマケドニア民族解放軍の幹部だった。このゲリラ組織が表舞台に姿を現すのは、2001年3月11日のことだ。こうして、人民運動は再び大アルバニア主義の中核的な政治勢力となった。マルクス・レーニン主義は影を潜めたものの、基調はウルトラ民族主義にある。この試みをアルバニアの社会党政権が公然と非難していることから、人民運動は、旧ユーゴ領内のアルバニア人を結集した「大コソヴォ」の実現を目標に掲げている。

 しかしながら2000年10月5日、ミロシェヴィッチ大統領は、民主的に選ばれたヴォイスラフ・コシュトニツァ大統領に取って代わられることになる。そして12月23日には、セルビア議会の選挙で民主派勢力が圧勝する。欧米諸国をコソヴォ解放軍に傾斜させたセルビアの抑圧者はもはや存在しないのだ。こうした状況から、アルバニア問題への注目を取り戻そうとして、急進派は最悪の道を選択した。彼らの目的は、「アルバニア版デイトン協定」を獲得するために、セルビアとマケドニアの安定を揺るがすことだ。同年11月22日、プリシュティナのユーゴ代表部の前で爆弾事件が起き、プレシェヴォでは4人の警察官が殺された。その3週間後、セルビアのPMB解放軍はマケドニアのアルバニア人政党、民主行動党とアルバニア人民主統一党の指導者から、セルビア政府に対して共同戦線をはるとの同意を取り付けた。

 その後に300名から400名の武装ゲリラが非武装地帯を占領し、その指導部が公に姿を現した。それは、「プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ政治評議会」の政治指導者でアルバニア人民運動幹部のヨヌズ・ムスリウ氏、次いでサチ氏のコソヴォ民主党の幹部だったハリル・セリミ氏である。軍事部門はレシ(本名はリドヴァン)、ラスニ、それにシャバンの3人の司令官が率いる。彼らはアルバニア人民運動ないしコソヴォ解放軍、あるいは両方を出身母体とし、マリ・トルノヴァツに本部をおいた。ヴェリキ・トルノヴァツ一帯はほぼ彼らの支配下にあり、麻薬、武器、売春婦の密輸の中心地となっている。後方支援基地はKFORのアメリカ分担地域の中心部、グニラネにある。この状況下、コソヴォに駐留するイギリス部隊がメドヴェジャへの通路を封鎖したのに対し、アメリカ部隊は12月の終わりにPMB解放軍の補給路への砲撃を始めるまでは手をこまねいていた。

マケドニアの国内状況

 プレシェヴォ渓谷の戦闘(6)だけでは第二のコソヴォとなり得ないことを悟った急進派ゲリラは、隣接する脆弱なマケドニアへと戦線を広げた。2月25日、50名ほどのゲリラが小村タヌシェヴチを占領した。コソヴォ、プレシェヴォからの援軍も加わって300名近くに増えたゲリラは、機動力と装備を備えており、タヌシェヴチ、マリナ、ブレスト、ゴシンツェに侵攻した。3月7日には、KFORとマケドニア軍が協力して民族解放軍を追い出した。しかしゲリラたちはコソヴォのデベルデとヴィチナに二つの後方支援基地をもっており、そこには人民運動の軍事資金と武器が溢れかえっているのだ。マケドニア国内の伝統的なアルバニア人政党の支援は期待できないため、彼らは3月11日、民族民主党を設立した。その指導者カストリオト・ハジレジャ氏は、自治路線をとる連立与党、アルバニア人民主党の脱党者である。

 3月13日に、マケドニアのアルバニア系住民2万人が首都のスコピエで平和的にデモを行った。続く3月14日に、民族民主党はテトヴォで示威行動を起こし、暴力行為を扇動した。5000人の参加者に混じっていた10名ほどの武装した人物が警官に発砲したのだ。その翌日、マケドニア民族解放軍が高台に迫撃砲を設置、市の中心部を砲撃した。数日の間、交戦が続いたが犠牲者は少数にとどまった。しかしアルバニア政府は予備役軍人を召集し、テトヴォに外出禁止例をだすことを余儀なくされた。

 アルバニア人民主党は、民族解放軍の暴力行為と民族民主党の急進主義を非難している。しかしその一方で、この状況を利用して、持論のアルバニア=マケドニア国家連合構想の推進を図っている。これは、少数派のアルバニア人が「国家構成民族」となり、多数派のマケドニア人と同等の権限を持つようにするという構想である。欧州連合(EU)15カ国は、マケドニア政府を支援しつつも、この構想を支持している。

 急進派は、アルバニア人がマケドニア人からひどい扱いを受けていると考えている。しかしアルバニア人は少数民族として公認され、独自の政党、新聞、ラジオ・テレビ局をもっている。また、アルバニア語による初等教育と中等教育を認められている。大学がなかったため、彼らは1995年にテトヴォ自由大学を設立した。しかしこの大学の卒業証書は公認されていない。この問題は2001年初頭に解決された。マケドニアの国家教育相がテトヴォに三つの言語(アルバニア語、マケドニア語、英語)を併用する大学を設置することを決定したからである。

こういった現状にもかかわらず、アルバニア系住民の不満は消え去るまでにいたっていない。確かに、マケドニアでは、コソヴォの「同胞」が被ったようなアパルトヘイトに苦しめられているわけではない。しかし、日常的な排外的態度から警察の「やりすぎ」にいたるまで、彼らが差別された少数派との実感をもつのももっともである。とはいえ、大挙してウルトラ民族主義的な主張を支持するほどではない。

 「ボスニア症候群」を恐れるマケドニア人政党は、アルバニア人政党との協調に配慮してきた。1991年から98年にかけての社会主義政権には、穏健派の民主繁栄党が参加していた。98年の政権交代で成立したマケドニア民族主義者のマケドニア国家統一民主党(7)率いる連立内閣にも、自治路線をとるアルバニア人民主党が加わっている。その間を通じて、アルバニア系には五つの閣僚ポストが割り当てられてきた。現在では、多くの国務次官、外交官それに情報機関のナンバー2にアルバニア人が就いている。

 しかし社会・経済の分野では差別が見られる。長い間、アルバニア系住民はロマ族と共に社会の最下層におかれていた。ここ10年ほどは、その傾向も少しは改善された。在外労働者からの送金と様々な密貿易(麻薬、兵器、売春婦)から上がる利益により、マケドニアの西部は繁栄し、テトヴォはマケドニアでもっとも豊かな都市となった。

 大アルバニア主義、あるいは少なくとも大コソヴォ主義を掲げるアルバニア人民運動急進派と元コソヴォ解放軍兵士らが、セルビア南部とマケドニア西部のコソヴォへの併合を期待して、二つの民主的な国へ暴力を輸出した。現在のバルカン半島の状況では、このような戦略の失敗は目に見えている。しかしその過激路線は、アルバニア系住民の一部を急進化させている。そして彼らが唯一の問題解決策と考える領土的自治は、新たな国家分割なしには実現され得ない。

(1) ジャン=アルノー・デランス「コソヴォ穏健派の巻き返し」(マニエール・ド・ヴォワール55号、2001年1-2月)参照
(2) イスラム教徒に改宗したマケドニア人をゴラニ人と呼ぶ。
(3) コレ・ジェロシャイ「戦後のコソヴォにおけるアルバニア系住民の政治的再編」(前掲『コソヴォ、その罠』所収)
(4) 「コソヴォ人民運動綱領」(プリシュティナ、2000年7月)より
(5) In Bota Shote, 9 August 2000.
(6) PMB解放軍の活動により、ブヤノヴァツを経由してウィーンとサロニカ(テッサロニキ)を結ぶ大陸の大動脈が分断されるおそれがあった。そのために欧米諸国が反応したのである。
(7) 長い伝統をもつ「内部マケドニア革命組織」が再編された政党


(2001年4月号)

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