アルメニアはアゼルバイジャンとの紛争を解決できるか

ジャン・ギュエイラス特派員(Jean Gueyras)
ジャーナリスト、パリ

訳・柏原竜一

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 アルメニアのテル=ペトロシャン大統領が、ナゴルノ・カラバフを「見限る」つもりかと政権内から批判されて失脚した「宮廷革命」から、そろそろ3年になる。その間、アルメニアとアゼルバイジャンの紛争の平和的解決は一向に進展していない。3月初旬、コチャリャン大統領は、フランス大統領の仲介により、わずか2年間で15回目となるアリエフ大統領との会談にパリで臨む。[訳出]
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 アルメニアとアゼルバイジャンの首脳は、アメリカが両国間の紛争を打開すべく改めて持ち出した領土交換という構想を検討するつもりだろうか。この構想は、1992年にアメリカ国務省高官ポール・ゴーブルによって練られ、何度か修正を加えられたもので、アゼルバイジャンによるナゴルノ・カラバフ共和国の独立承認をうたう。この飛び地をアルメニアと結ぶラチン回廊はアルメニアに割譲され、それと交換にアゼルバイジャンにはメグリ地方(1)が与えられる。アゼルバイジャンにナゴルノ・カラバフの喪失という煮え湯を飲ませる代わりに、せめてもの慰めにメグリをやろうといった発想かと思われる(2)

 この物々交換の構想は、2000年1月にコチャリャン大統領とアリエフ大統領がダヴォスで会談した直後にリークされた。アゼルバイジャンのグリエフ外相は好意的な反応を示し、「歴史的な快挙」とすら呼んだ。アルメニア側の反応は鈍く、政府の当惑を表していた。オスカニャン外相は、領土交換構想が首脳会談中に検討されたことは認めつつも、コチャリャン大統領が即座に拒絶して終わったと述べている。

 アラム・サルキシャン前首相の見解は異なる。1999年10月27日、アルメニア議会の開会中に暗殺された兄のヴァズゲンの後継者に指名された彼は、7カ月の間首相を務め、在任中にコチャリャン大統領とナゴルノ・カラバフ問題に関して何度も協議をかさねた。彼は我々のインタビューに対し、きっぱりと語った。「大統領はメグリを割譲するという構想に同意していただけでなく、もっとも熱心な推進者の一人だった。真の発案者は自分だと述べていたほどだ」

 ある西側の専門家は次のように論評した。「不幸なことに、コチャリャン大統領はメグリの割譲が唯一の解決策だと確信しているものの、それを同胞に説得できずにいる」。実際、国内外のアルメニア人はみな、「アルメニアの領土と別のアルメニアの領土と」の交換などできないと考えている。そのような取り決めを受け入れることは、政府首脳にとって政治的な自殺に等しい。

 極左の小政党「社会主義勢力連合」を率い、親ロシア派として知られているマヌチェリャン党首は、この問題には深い背景があると言う。2000年10月に鳴り物入りで記者会見を開き、1999年10月27日の事件の主な犠牲者となったヴァズゲン・サルキシャン首相およびデミルチャン国会議長は、「上からの指示」で暗殺されたものだと「暴露」した。というのも彼らは領土交換によるナゴルノ・カラバフ問題のいかなる解決にもはっきりと反対の立場をとっていたからだ。

 マヌチェリャンの主張には証拠がないにしても、オスカニャン外相の言明とは裏腹に、「メグリ回廊」構想はまだ完全に消えたわけではなさそうだ。最近コチャリャン大統領と会談したアメリカのセスタノヴィッチ元国務長官特別補佐官は、領土交換という考えがアルメニアであまり受けがよくないにせよ、忘却の彼方に追いやられたと考えるべきではない、とはっきりと述べている。アメリカにとってこの構想は、南カフカスにおけるアメリカならびに同盟国の地政学的利益を維持しつつ、ナゴルノ・カラバフ問題を公平に解決するための最良の手段なのだ。

親ロシア派の暗殺か

 この解決策で主に利益を得るのはトルコである。メグリ回廊がアルメニア領でなくなれば、これによってアゼルバイジャンの西の飛び地ナヒチェヴァンが本国と地続きとなり、このルートを経由して中央アジアのトルコ語圏の国々とも結びつくことになるから、トルコはロシアとイランの影響を受けない主要な地域勢力となりうる。アルメニアの側は、これまでトルコとアゼルバイジャンによる経済封鎖の中で生命線となっていたイランとの地理的な結びつきを失ってしまう。それゆえか、イランとロシアはこの構想に対する反対を隠そうとしない。

 この紛争は実のところ、冷戦後の最後の主戦場の一つとなった南カフカスで、米ロが隠然と繰り広げている勢力争いの一環なのだ。この対決は真剣勝負ではない。両者とも相手をこの地域から排除するのを望むわけではないとの前提に立っている。ただ、この5年ほどの間に、ロシアの形勢は悪くなっている。グルジアとアゼルバイジャンはモスクワと距離をおき、経済・政治・軍事面で西側との協力関係を構築しつつある。アルメニアだけが、「宿敵」トルコを警戒する余り、そうした路線を公然と進むことにためらいを見せている。アルメニアはロシアと25年にわたる同盟を結び、国内にロシアの基地を維持することなどに同意した。

 国防政策上の課題と、いまだおぼつかない市場経済の発展という課題を両立させるために、アルメニアは「相補的」とも言うべき外交政策を進めてきた。軍事面ではロシアと同盟し、経済・政治面では西側と協力するという路線だ。世界でも類例のない混合政策は、将来も存続しうるのだろうか。ロシアはアルメニア経済の西側への傾斜をしぶしぶ認めているにすぎず、アルメニアにおけるロシアの影響力が(軍事面も含めて)衰退を深める前兆ではないかとの懸念を抱いている。

 モスクワにとって、1999年10月27日の事件はいわば警告として受けとめられた。この事件の主な犠牲者は、ロシアのもっとも確実な味方だった。総選挙で、エルクラバー(3)のカリスマ指導者ヴァズゲン・サルキシャン率いる共和党と、元アルメニア共産党幹部のデミルチャンが率いる人民党が圧勝したのを受け、彼らは政権に就いた。この二人による新連合は、議会で安定多数を占めていることを利用して、大統領を政治の日陰に追いやってしまった。

 公式見解とは裏腹に、10月27日の虐殺は数人の狂信者による凶行ではなく、クーデターに匹敵するものであった。連立与党連合ミアスヌチュン(統一)を一瞬のうちに壊滅させることによって、事件は国内政治における権力の均衡を変えることに成功したのだ。これ以降、コチャリャン大統領が完全に権力掌握した。有能で恐るべきセルジ・サルキシャン(4)が彼を支えた。つまり、まさに99年5月の総選挙で敗北した勢力である。カリスマ的な指導者を失った与党2党は、後継者を決めることもままならず、経験豊かな幹部にも乏しく、コチャリャン大統領の復権という流れを押しとどめることはできなかった。大統領は少しずつ、マキャベリ的ともいわれたほど巧みにアメとムチの政策を操ることにより、彼の罷免を試みる反対勢力を分断することに成功した。

 アルメニアの内紛に対してロシアは厳正な中立政策を採用し、コチャリャン大統領が事件の7カ月後に、「殉教者ヴァズゲン」の弟、アラム・サルキシャン首相と彼を取り巻く親ロシア派の大臣を乱暴に解任した時も、苦情を述べるようなことはなかった。その一方で、モスクワの指導者はアルメニアに対し、外交政策の「相補性」理論が行き過ぎとなるような試みには一切反対であると何度もそれとなく通告していた。

 2000年5月にロシア国防省の高官、イワショフ将軍が非常にはっきりと述べている。「アメリカ、NATO(北大西洋条約機構)、それにアルメニアのアメリカ大使館は、アルメニアとロシアの関係を切り崩し、両国間の軍事協力を破壊しようとしている」。彼は続けて言う。「ロシアはこの地域におけるアメリカの軍事プレゼンスはいかなるものであれ南カフカスの安全保障にとって極めて危険であると見なす」。この地域の安全保障体制へのアメリカと欧州連合(EU)の関与をほのめかすコチャリャン大統領の度重なる発言が、かなり露骨に槍玉に挙げられている。

コチャリャン大統領の選択肢

 ロシアとアルメニアの不協和音はそれだけではない。モスクワを10月に訪問したコチャリャン大統領は、その成功をぶち上げたが、アゼルバイジャンとの領土紛争に対してロシアからはっきりとした支持は取り付けられなかったようだ。それどころか、プーチン大統領はアルメニアの大統領が来ている最中に、アゼルバイジャン訪問の予定を発表し(訪問は1月に実施され、そこで彼はアゼルバイジャンの姿勢を軟化させようと努めた)、両国の紛争に対するロシアの中立を改めて打ち出したのだった。ロシアはナゴルノ・カラバフ問題の解決に関して「特別な権利」は持っていない、とプーチン大統領は強調した。言ってみれば、モスクワのどっちつかずの南カフカス政策を表明したわけだ。

 モスクワと西側を両天秤にかけた政策で対外的に弱体化したコチャリャン大統領は、国内においても相変わらず勢力基盤が弱い。たしかに、エルクラバーに結びついた軍人の一部については、その中でももっとも野心的な者を軍司令部や国防省の要職に就けることによって、反対の芽を摘むことに成功した。少しでも目に余るような動きを聞きつけた人間は政府から追い出した。また、連立与党連合ミアスヌチュンを分断し、周辺に追いやった。

 しかしながら、新たに一枚岩の忠実な議会与党を獲得するには至っていない。世論の大部分が信じているように、側近が10月27日の事件に関与したという疑惑も払拭できていない。さらに深刻なことに、国民の大部分を苦しめている社会経済危機を解決できていない。

 期待が正しかったかはさておき、ヴァズゲン・サルキシャンとデミルチャンの連合は国民の中に大きな希望を産み出していた。一般的に言われているように、この「最後の、焼けつくような希望」が失われると、40%を超える記録的な失業率により、国外移住が憂慮すべきほど加速した。アルメニア共産党のタルピニャン党首によれば、この現象は「国家的な破局」である。「普通の生活を送る条件がアルメニアにはもはや存在していない」と彼は述べ、「新たなジェノサイド」とも呼ばれる大規模な国外移住もいたしかたないと言う。

 共産主義者と極左に言わせれば、はっきりとモスクワを向いた政策、すなわちロシア=ベラルーシ同盟への加入という道をとれば、アルメニアは窮地を脱することができる。逆にアメリカやEUとの協力の緊密化を主張する者にとってみれば、市場経済の法則の下にある国においてロシアの影響力が減退するのは自然の道理である。西側からの大規模な投資しか経済を活性化させる手段はない。

 しかしその前に、投資家の腰を引かせるナゴルノ・カラバフ問題を解決する必要がある。長期にわたって国民の大きな関心を占めてきたこの紛争が、アルメニアの政治と経済の行く末を左右する。テル=ペトロシャン前大統領は政権末期、ミンスク・グループ(5) によって提示された妥協案を受け入れるつもりだった。というのも、13年にわたるアゼルバイジャンとのナゴルノ・カラバフ紛争が解決されない限り、アルメニアの持続的な発展はないとの結論に達していたからだ。この結論が、1998年2月に前大統領を失脚させることになった。はたしてコチャリャン大統領は、同じ道を進むだけの政治的な勇気を持ちあわせているだろうか。

(1) ゴーブル構想の最新版によると、10キロメートル幅の回廊を設け、アルメニアとイランの間はそれを横切る二つの狭い通路によって結ぶ。
(2) ジャン・ラドヴァヌイおよびフィリップ・レカツェヴィッツの記事(ル・モンド・ディプロマティーク2000年10月号)参照。また「ナゴルノ・カラバフは平和でもなく戦争でもなく」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年1月号)も参照のこと。
(3) ナゴルノ・カラバフ戦争の復員軍人による民兵組織エルクラバー(国の衛兵)は、ヴァズゲン・サルキシャンによって勢力を拡大し、アルメニアの主要な政治勢力の一つになった。
(4) 10月27日当時の国家治安相であったセルジ・サルキシャンは、当時の内務相と検察総長同様、軍の怠慢ということで処罰されてもおかしくなかった。ところが彼はその後めざましい昇進を続け、現在は国防相として政権内のナンバー2となっている。
(5) ミンスク・グループは1992年に欧州安保協力機構(OSCE)の後援によりナゴルノ・カラバフ紛争の解決策を探るために設けられた。アメリカとロシア、それにフランスの3カ国が共同議長国となっている。


(2001年3月号)

* 随所「サスキシャン」を「サルキシャン」に、「セルジュ・サスキシャン」を「セルジ・サルキシャン」に訂正(2008年3月28日)

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