教育的に正しいアルジェリア戦争

モーリス・T・マスキノ(Maurice T. Maschino)
ジャーナリスト

訳・萩谷良

line
 2000年6月、アルジェリア大統領がフランスを訪問した。それと時期を同じくして、アルジェリア戦争(1954−1962年)中にフランス軍から拷問を受けた女性闘士が自分を救ってくれた兵士を捜しているとの短信が、ル・モンド紙上に掲載された。そこで拷問者として名指しされた2人の士官の反応は対照的で、マシュー将軍は追認し、ビジャール将軍は猛反発した。11月から12月にかけ、共産党が求めた調査委員会の設置をめぐって、一時フランス政界は騒然となった。第二次世界大戦下の対独協力政権の「清算」に踏み出したフランスも、植民地解放闘争にほかならなかったアルジェリア戦争をいまだに直視できずにいたからである。[日本語版編集部]

line

 1957年9月。左翼野党の圧力を受けたフランス政府により、各方面の有識者を集めて設置された個人の権利・自由擁護委員会が、拷問はアルジェリアでは日常的に見られることだという衝撃的な報告を公表した。

 2000年12月。ル・モンドに掲載された、拷問に関する新たな証言が大きな動揺を引き起こしていたが、首相は、「少数の者による逸脱行為」だと思うと述べた。第一の虚偽である。しかし、首相は、歴史家がこの「逸脱行為」に光をあてることには反対しないと、真顔で付け加えた。第二の虚偽。1997年7月27日の施政方針とは裏腹に、よくよく強硬に要求して例外的に資料を入手するのでもないかぎり、特に微妙な資料が閲覧可能だったことは一度もない。

 1957−2001年。この44年間、ギー・モレからリヨネル・ジョスパンに至るフランス歴代内閣は、欺瞞の文化の中に生きている。情報を得ようとしているふりをしながら、情報への自由なアクセスを妨害しているのだ。「フランスは自らの歴史を明晰に見つめることにいささかの困難を経験している」と中途半端な告白をしては、それを撤回する。そして、何も知ろうとしない。あるいはなるべく知るまいとする。アルジェリア帰りの将軍が夜8時のテレビの報道番組で、あらゆる戦時法に反して、その手で24人のアルジェリア人の囚人を冷酷に処刑したことを言明したときにも、それに対して耳をふさぐ。

 結局、良心の呵責などかけらも感じていないのだ。不可避の「遺憾」な「失態」もあったとはいえ、フランスは、人も知るように、道路、病院、学校など、支配下に置いたアルジェリアの民衆に、多くのものをもたらしたのだという観念が、歴史家や教師も含め、市民全般に根強く行き渡っている。

 「たしかに、植民地化にはプラスの側面もありました」と、未来のエリートが集まるパリの2つの高校のひとつで、特別進学クラス(1)を教えるB.D.教授は言う。「とにかく、フランスはアルジェリアに近代的社会基盤、教育制度、図書館、コミュニティセンターなどを残したのです。1962年にアルジェリア人の学生は10%しかいなかったって? そりゃ少ないですよ、もちろん。でも、まるきりいないわけじゃない!」

 良心に恥じるところのない人びとと、自己欺瞞に満ちた人びと。フランスという色眼鏡をかけないで見れば恐るべき現実に対する自己満足、つねに変わることのない否認、なんとしてもそれを隠蔽しようとする傾向。学校で歴史教育が行われているのは、こんな雰囲気の中でなのだ。政権が替わっても教育は変わらず、市民を無知にしておこうとしながら、市民に情報はちゃんと伝えていると思い込ませようとする。この教育が、植民地制度の現実のありさま、つまり、それが共和国(2)の宣する価値としての人間存在の絶対的否定であることを、若者に教えることはない。公式に戦争と呼ぶことを1999年8月10日まで拒んできた(3)ものが何であったのかを、若者達に理解させることもない。

 教育省の通達、カリキュラム、時間割、教科書など、教育のためのあらゆる手段が、小学校、中学、高校の生徒達に、この出来事についてなるべく知識を与えないようにとの配慮に立って作成されている。

 すべての始まりは小学校にある。そこで、教師は、2000年の歴史を5年間で(4)さっと通りすぎなければならない。「植民地化ですか? ええ、話しますよ、ほんのざっとですが」と、そんな小学校教員の一人は語る。「でも、教科書に写真が載ってますから、それで授業の補足になるし」。だが、写真は補足どころか、(場合によっては)逆に働く。ほとんどすべての教科書には、フランスのアルジェリア占領を肯定的イメージでとらえた写真が載っている。1860年のアルジェリアでは、善良な「土着」の民が主人の言葉を喜んで聞き、コロン(5)がこの土地を開発していたといったように(アシェット版(6))。

 たしかに教師はここで、これに批判的な意見を挟むことも可能だ。しかし、多くの場合、教師は「若い人達」に「ショックを与える」ことを望まず、我々が取材した教師も認めるように「植民地化の負の側面はあまり強調しない」でおく。疑いなく、これらの「側面」は、速やかに忘れ去られていく。ビュジョーの焦土作戦(7)、棍棒での殴打、ぼろを着た子どもたち、北アフリカ特有の粗末な家屋といったことを、写真からうかがい知ることはできないのだから。

 歴史の代わりにプロパガンダ。それも、ありうる限り最もお粗末で、最も厚顔無恥な例。そこで語られていないことを考えても、そこで賛えられている事柄を見ても、どちらも一緒だ。「世界の分割」を学ぶ中学3年生(8)の生徒に、この分割が引き起こしたありとあらゆる略奪と収奪についての説明は一切されない。それどころか、19世紀の世界探検はヨーロッパ人にとって晴れがましい「知的冒険」だったとして、生徒が賛嘆の念をもって見るよう、全力が挙げられる。1995年の教育省通達には、「この現象の文化的側面、すなわち地理学協会の発展、民族学の勃興、等々に特に留意すること(9)」と書かれている。「良き未開人」がもたらした効用か。

駆け足の授業

 小学校と中学校を通じてこのような教育を受けた生徒は、高校に上がると、刈り込まれ、都合の悪い部分を取り除かれ、すっかりきれいにされたアルジェリア戦争の物語を、批判精神などまるでもたずに(それを抑えつけるために全力が挙げられたのだから)受け入れる準備が整っている。

 それも、当然ながら、教師がアルジェリア戦争を授業で取り上げるならば、の話である。中学4年生のカリキュラムでは、このテーマは明示されていない。この話題にふれるとすれば、「冷戦と今日の世界(東西関係、植民地解放、共産主義世界の崩壊)」の枠組みの中でだろうが、この部分はそもそも切り詰められている。

 「現今のカリキュラムは、以前よりはるかに短縮されているし、内容も単純化されています」と、O.D.教授は語る。「植民地解放については、別に一章が設けられるどころか、1945年から現代までの国際関係を学ぶなかで、たった一段落にすぎないのです。言い換えれば、ほとんど無きに等しい。バンドン会議や、インドやインドネシアやインドシナの独立の話をしなければならないときに、どれだけの時間をアルジェリア戦争に割くことができるでしょう。1時間? それだけでもすでに相当なことです。それに教科書の記述はすごく簡略ですしね。新人教師は、1989年のカリキュラムに沿って、植民地解放には、植民地化や第二次大戦ほどの時間をあてません」

 「教員室」のテーブルの上に置いてあった、何冊かの教科書の見本を覗く。ブレアル第3版によれば、「アルジェリアでは、弾圧と戦争(1954−1962年)が、FLN(アルジェリア民族解放戦線)によるゲリラ戦に対して行われた」。だが、なぜ、その「ゲリラ戦」が起こったのか。「資料編」に掲載された年表は、何も物語らない。ビジャールの弁舌(10)と大差ない。マニャール版の教科書は、さらに気が利いていて、「授業編」でアルジェリア戦争を5行で「片づけ」、ほとんど何も示唆しない4葉の写真(例えば、1962年のアルジェの投票所の様子とか)を「資料編」に掲げている。

 ジョスパン流の節度ある政策のもとでは、小学校から中学校、高校まで、贅肉を落とさなければならないのだ。

  高校3年(最終学年)になっても、学習内容が豊富になるわけではない。しかも、たいていの生徒は、たとえ教師が良識のある話をしてくれたとしても、それを聴くような精神状態にない。彼らは、それまで何年もにわたるイデオロギー的宣伝攻勢のため、定説に反する説を素直に理解できないことがしばしばである。「質問をするのは、自分の家族が関わっていた生徒だけです」と、地方の高校の教師であるG.R.氏は言う「ほかの生徒は、おとなしくノートを取っているだけです。まるで、以前に私が授業で第一次大戦の話を聴いてノートを取ってたときみたいに・・・」

 生徒達は、それと明示はされないまでも、「本国」による「文明開化の使命」を賛えるイメージをたっぷりと刷り込まれ、「本国人」とコロンがアルジェリア人を搾取して(物質的、象徴的な)利益を引き出していたことはほとんど何も知らない。植民地制度について、被支配者が被ったままの、その「具体的」な表出の面から、つまり(ブレアルの高校3年生用を除き、どの教科書も一語もふれていない)人種差別や、あらゆる種類の不正、そして経済・社会・政治・文化的不平等という面から分析する機会など、一度も持ったことがない。その結果、「イスラム教徒」がなぜ反乱を起こしたのか、「狂信主義」か「恩知らず」ぐらいにしか理解できず、また、なぜフランスが、教科書で控えめに言及された彼らの「解放」に強硬に反対したのかも、同じように理解できない。

 「アルジェリア人が『土着民』や下等市民としては描かれず、民族運動の歴史についてふれられず、メッサリ・ハッジやフェルハト・アッバースのような抵抗運動の重要人物(11)が一人も現れず、注意を引きもしないわけですから」と、歴史学者バンジャマン・ストラは言う。「要するに、生徒達は、植民地化とはどういうことだったのかを説明されていないので、なぜ植民地解放があったのかが理解できないのです」

 「それはそうです」と、ジャン=ピエール・リュー歴史教育担当視学総監は言う。「植民地解放は、唐突ですね。しかし、教師がその抜けを埋めることは禁止されていませんよ」。禁止されてはいないが、義務づけられてもいない。それどころか、すべてが(そもそも、アルジェリア戦争が、ほとんど水面下でしかカリキュラムに入れられていない、というやり方自体が)、「重要でない」問題にかかずらわらないようにと教師に示唆しているではないか。

 中学4年のときと同様に、情報を与えないという論理、あるいは歴史のカリキュラム全体を覆い尽くす駆け足の情報提供の論理に従って、アルジェリア戦争は、高校3年でもまた、そのためにわざわざ一章が割かれるようなテーマとはされない。

 それは、カリキュラムの中のどこでも、1939年の世界から現代までのどこでも、そういうものとして言及されることすらない。「アルジェリア戦争は、隅っこに押しやられていますね」と、歴史家ジル・マンスロンも言う。それは周辺に追いやられているのだ。場合によっては、植民地の民衆の解放という章の中で事例として学習される(ただし「一部の同僚は、これを数語で片づけ、それよりインドかインドネシアのほうを熱心に扱っているのです」とは、L.P.教授の言)。また、第四共和制の崩壊との関係で、言い換えれば、フランスの(不幸な展開となった)問題として、なによりも国内問題という観点から(12)、取り上げられることもある。「フランス側からどう見えたかを生徒に示すことが教師の任務だ」と、リュー視学総監が述べる通りである。

 だから、アルジェリア戦争にかかずらうのを避ける教師が多いのは驚くにはあたらない。時間が足りず、カリキュラムが詰まっているという理由ではない(少なくとも、そればかりではない)。それは、あまり見つめたくない事柄だということだ。フランス軍が行った蛮行、歴代内閣の卑怯で曖昧な態度、左翼右翼をとわぬ諸党派の日和見的な態度にふれることに、気が重くなる教師が少なくないのである。「アルジェリア戦争は、アウシュヴィッツ以降の『あれを二度と繰り返してはならない』を出発点とする『正しい政治』の見取り図の中に、うまく位置づけられないのです」と、リュー視学総監は認める。結局のところ、どうもあまりこの時代の学習に時間をかけるのを望まない様子である。

 そして、続ける。「なんのためにアルジェリア戦争にわざわざ時間をかける必要があるのでしょうか。なぜ、ヴェトナムやコソヴォじゃないんですか。それを言い出せばきりがないでしょう。しかも、今世紀のもっとポジティブに評価できる事柄をさしおいてですよ。我々は、生徒の注意を十分にメディアや科学技術の発展には向けていませんよね。若者にインターネットのような革命を理解させるための準備を十分にしているかどうか、怪しいと思います。それに、公民教育の点で、もっと差し迫って重要なテーマもある。例えば、ヨーロッパ統合の歩みとか。これだって、アルジェリア戦争のエピソードを長々と紹介することに劣らず大事なことなんですよ」

婉曲な言葉づかい

 これは了解ずみとして、片の付いた事柄なのだ。生徒達は、視学総監ジャン=ルイ・ナンブリニの言によれば「記憶の義務に縛られる」べきではないのだから、彼らに記憶(それも嫌な記憶)を詰め込むなどはもってのほかだ。一番いいのは(この観点から見てだが)、教科書に提案されているような、いずれにしても内容の乏しい事項をいくつか述べるにとどめておくことだ、というわけである。

 今の教科書は少しばかり修正され、戦争という表現を使っている。だが、その大胆さにおじけたかのように、それ以上に詳しいことは語らない。戦争といっても、どんな戦争のことなのか。解放戦争か。国内問題の文脈では考えられないことだが、ほかに書きようがない。植民地奪還戦争か。まさにそうだったが、この表現は問題があるし、含みが多すぎる。ブレアル版だけが、用語にひるむことなく、著しく正直な書き方をしていて、アルジェリア戦争を記述した章に「民族自決権について」というタイトルを付けている。これを唯一の例外として、ほかのどの教科書も、慎重に曖昧な表現にとどめている。

 誰と誰の闘いかという点にも、同様の曖昧さがある。どのような戦争であったのかも知らなければ、誰と誰が闘ったのかもわからない。第二次大戦についてならごく自然に使われるだろう用語(ドイツ人・ナチス親衛隊員・占領軍、フランス人・レジスタンス)は、もちろん排除されている。「占領軍ですって?」と、ある女性の教師は激しく言い返した。「頭がおかしいんじゃありませんか! 占領軍というのは、リヨンにいたクラウス・バルビー(13)なんかのことですよ」。では、アルジェにいたマシュー(14)はどうなのか。「それは違います」と、ほとんど息も詰まらんばかりの語調で彼女は言う。「それは表現がオーバーです。なんで、植民地化をほかのことになぞらえようとするんですか?」

 そのくせ、教科書が、アルジェリア戦争を暗に十字軍になぞらえているのは、たいして問題だとは思っていない。「ヨーロッパ人とイスラム教徒みたいに、しょっちゅう繰り返し使われるような言葉が、あまり厳密には使われていないことは、確かに認めますよ。でも、それは、そのほうが便利だからです」。なるほど、カードをかきまぜ、敵を悪役に仕立てるためには便利だろう。しかし、小学校の授業がカール・マルテルに肩入れしているというのに、どうやってイスラム教徒側の視点に立つことができるだろうか。

 教科書の言葉づかいは、厳密さと正直さというものが全面的に欠けていて、つねに混乱を引き起こす危険があり、(政治と心理のように)異なるジャンルを混在させている。ある教科書は「苦しみにみちた分離」と書く(アシェット版)。だが、誰にとって「苦しみにみちた」ものなのか。別の教科書は「植民地の分裂」と書く(マニャール版)。また別の教科書は「もぎ取られた」独立であったと括弧つきで書き、4つめはいっそう大胆で、これに括弧すらつけない。ほとんどすべての教科書が最大の困難を感じているのは、この戦争を明白に名づけるとしたら、何と呼ぶのか、その目的は何か、誰に対しての戦争だったのか、という点だ。一方には、ヨーロッパ人、コロン、落下傘部隊がいる。他方には、イスラム教徒、フェラガ(15)、テロリストが対置されるが、彼らは決して、ゲリラやレジスタンスや愛国者とは言われない。

 また、教科書は、さまざまな事実を挙げるのにも、同じように気詰まりな様子である。大半は、最低限の事項にとどめていて、1945年のセティフの殺戮(16)に言及しているものはきわめてわずかだし、1955年8月のフィリップヴィルの虐殺(17)となるとなおさら少ない。「赤い万聖節」「反乱」「連続テロ」などと書かれる1954年11月1日の事件からエヴィアン協定締結までの間に(18)、アルジェの戦い、第四共和制の崩壊、ドゴール政権の成立、将校の反乱、OAS(秘密軍事組織)(19)、「ピエ・ノワール(20)の帰還」等々、この戦争の主なエピソードを、じつに平板な中立的な調子で挙げている。

 拷問については、ほとんどどの教科書もふれてはいるものの、なるべく軽く見せようとしている。「一部の軍人が拷問を行った」(アティエ版)、ヨーロッパ人が虐殺されたため、非常に苛酷な弾圧が起こり、「軍隊による拷問すら見られた」(ブラン版)など。それは遺憾なことではあったが、軍は「そうせざるを得なかった」のであり(アシェット版)、「内部情報を奪取すること」(イストラ版、ナタン版)、「FLNの地下組織を解体すること」(アティエ版)、およびテロを阻止することが(拷問について語られるときにはほとんどつねに言われるように)問題だったのであり、結局、目的によって手段が正当化されている。

 それは、明瞭にそう書いてあるのではなく、あくまで暗示にとどまる。教科書は、自らが掲げる価値を踏みにじった共和国というスキャンダルについて、生徒にじっくり考えさせることとは程遠い。いずれも揃って、必要悪だが有効な措置として示し、それを正当化しようとまではしなくても、身を低くして、ほとんど弁解に終始する。「落下傘部隊は拷問によってFLNの地下組織を破壊した」(マニャール版)。これで教科書はみな無罪放免となる。拷問者は、快活なターザンとなるのである。

 気まずい様子で、婉曲語法を用い、言外に言うものもある。アルジェの戦いの際に「FLNはひどい扱いをされた」など。「例えば軍人ロビーのような圧力団体は、非常に強力であるだけに、考慮に入れざるを得ない」と、アシェット書店の編集責任者の一人は説明する。彼は、本人の言葉によれば、言い回しについての非難を「甘受する」という。「我々は、拷問については言及しないという選択をしたのです。これは、論争を呼ぶ話題ですから。教科書は法廷ではありません・・・。もちろん、事実を引くことは禁止されていません。しかし、3年前、この教科書が書かれたときは、マシューの本と告白が世に出る前で、拷問はまだ歴史的事実ではなかったのです」

 この教科書は、はたして特殊ケースなのだろうか。拷問に関するかぎりでは、その通りだ。しかし、他の大半の教科書も、事実の取捨選択を行っているのは同じだ。この戦争の行われた理由については、きわめて婉曲に、植民地主義の暴虐よりも、フランスのアルジェリア支配に対する米ソの反対のほうを好んで引き合いに出す。作戦の展開に関する記述は慎重で、村落への掃討射撃、手続なしの即時処刑、オーレス山地へのナパーム弾投下、強制収容所については、言及しない。数字はほんのわずかしか挙げず、200万人以上の召集兵がアルジェリアに送られたということは明記しない。植民地奪還戦争に反対したフランス人もいたことについては、ひとこともふれていない。

 いくつかは、ボラルディエール将軍の辞任(21)についてふれ、「資料編」に「121人宣言」(22)を掲載し(それで注釈なしですませ)、アンリ・アレグの『尋問』(23)に言及している。だが、モリエンヌの『脱走兵』あるいはノエル・ファヴルリエールの『夜明けの砂漠』の抜粋を載せているものはなく、サルトルがジャンソン裁判に提出した糾弾書簡(24)を引き合いに出すものもない(不服従運動やFLNを支援した人びとに漠然と言及したものが、ぽつぽつあるぐらいだ)。「本国」での269件の書籍と新聞の差し押さえ(アルジェリアでは586件)にふれているものも、映画の上映禁止(25)にふれているものもなく、あの8年間に共和国の歴代内閣が手を染めた極端な世論操作を分析したものもない。にせの約束、虚偽、否認の山。それらは教科書の「歴史家」の脳裏にはない。

 そして、あの戦争がフランスの、アルジェリアの、政治と人間に何をもたらしたかには、どの教科書も注意を払っていない。 アルキ(26)、ピエ・ノワール、補充兵、彼らの心理的外傷や、村を破壊され、生活を破壊された数十万人ものアルジェリア人は、どこかに消え失せてしまったのだ。戦争だって? どの戦争だ? アルジェリア戦争は、理由なく(というのも、それについては語られないから)始まり、8年後に、痕跡も残さずに(というのも、それについてはふれられないから)終了する。中立化され、消毒され、ほとんど空っぽにされた以上、この戦争が、生徒を考え込ませる恐れはない。

歴史教員の憂鬱

 もちろん、ナンブリニ視学総監はそんなふうに言いはしない。このような戦争が教科書の中に登場することで、一切の「極端視」が避けられると自賛する。「行きすぎた形で感情を強調すること、それは歴史的客観性には役立たないのです。派手な記述は避けなければなりません・・・。民主主義および共和国の価値を生徒に学ばせるというのは、犯人探しをすることではありませんからね」

 だが、客観性という口実のもとに、虐待者と犠牲者を、拷問した者とされた者を、拷問に反対したために重禁固に処せられたボラルディエール将軍と、ミッテラン大統領時代の恩赦によって名誉回復した反乱将校を同列に並べることで、どんな価値を教えるというのか。権力の代弁者は、彼らに指示を下す者と同様に、いわゆる価値を尊重するどころか、愚弄しているのだ。

 「教科書とは、まさに公式史観を伝えるものです」と、歴史の教授で研究者でもあり、アルジェリア戦争を記述した章を編集者に承認させるのに大変な苦労をしたというサンドリーヌ・ルメールは言う。「それは、国家が国民の記憶として通用させたいと望んでいるものを、特によく示す見本なのです」

 教師は、たしかに、こうしたメッセージを、言われた通りに伝えることを強制されはしない。彼らが自分の授業を自分の思った通りに組み立て、生徒が深く考えるようにしむけるうえで有益だと思う教材を提供するのは自由だし、当局の通達でもつねに、その点が強調されている。

 それはそうだが、この自由を実際に行使するのは、ひどく難しい。「カリキュラムは」と、V教授は説明する。「高校2年でアルジェリア征服を学んだあと、植民地解放のことは3年生で勉強するように組んであります。しかし、植民地制度そのもの、そしてそれが当初から引き起こしていた抵抗運動は、カリキュラムの上で排除されています。帝国主義的支配がしかれたときから、それに対する抗議の運動が起こるまでの間に、大きな空白があるのです」

 彼女によれば、いちばん拘束になるのは、イデオロギー的な内容ではない。「私たちは、ともかく距離をとることができます」。しかし、「もっぱら総論的な授業を保証することが義務づけられ、分析のための手がかりを与える余地がないのです。そこが泣き所ですね。生徒は総論を教えられるだけで、そこに至る分析ができないのです」。それはつまり、総論に似て非なるものだ。あるいは、ただの要約で、しかも、その前に要約された事柄を学ぶわけでもない。こんなことはばかげている。そして、それは故意になされているのだ。このような犠牲があればこそ、事件の細部には立ち入らず、面倒なことには口をつぐみ、いちばん誰もが同意しそうな話を構成し、さまざまな出来事の本質を探ることのない歴史の読み方を生徒に示すことができるのだ。

 自分の仕事を大切にし、権力に(不当に)利用されるのを拒否したいと思う教師は、何をすべきなのだろう。欠落を埋める工夫が必要だ。カリキュラムの中の2つか3つの問題をことに掘り下げて学ばせることを優先し(ほかの問題は犠牲にして)、教科書の記述を補うような資料を生徒のために用意し、やる気のある生徒に資料レポートを作らせる。「これは困難な仕事です」とV教授は力をこめる。「そのためには、余裕のない授業時間から必要な時間を捻出し、学年末には修了試験や大学入学資格試験もあることを忘れずにいなければならないのです。ですから、カリキュラム全体を考えて作らなければならないし、ある問題にあまり時間をとられると、ほかのことを粗略にしてしまう危険があります。ほんとに頭痛の種ですね」

 ときおり、V教授やその同僚の教師達は、外部の人を呼んで話をしてもらうこともある。だが、これは授業時間枠外のことで、学校幹部の同意が得られることが条件だ。彼らの高校の幹部はリベラルな姿勢をもっている。しかし、校長や、視学官、あるいは学区長のレベルで(27)妨害が入ることがある。数年前、ランスの学区で教職にあったサンドリーヌ・ルメールは、学区長から「図像と植民地」に関する展示会の開催を禁止された経験をもっている。この禁止を言い渡すためにルメールを呼んだ役人は、学区長の命令の書簡を渡すことを拒んだ。まったく恣意的な措置である。

  V教授や、サンドリーヌ・ルメールのような例は、ところどころに見られるが、少数派である。大半の教師は、「場違い」な発案はせず、過度の情熱を持たずに自分の授業をこなし、中立的と思う話をしておくにとどめている。「歴史の授業は高等裁判じゃないのよ」と、ある教師は言い放つ。「拷問? 私ならそんなことに10分以上はかけません」と、その女性教師は、いらいらした調子で付け加えた。「あの話は、大騒ぎしすぎだわ。私は歴史家の目で見ています。もちろん、だからといって、まるで外科医みたいに淡々と話すわけにもいかないんだけど。まったく、もう・・・」

 これほど鼻で笑うような態度は取らないにせよ、多くの教師は、定説に反する内容の授業をきちんと構築できるほど、理論武装ができていない。ほかのフランス人と同様の共和国教育を受けてきた彼らは、往々にして、用意されたコースを外れるための手がかりを持たない。カリキュラムは大学によって違っているが、アルジェリア戦争のことを詳しく勉強していなくても、まず入試にパスするのに心配はない。口頭試問でそんなものに「当たる」ことは、ごくまれで、筆記試験ならなおさらまれだ。それに、教えるべきことを学び終えていなくても、教師にはなれる。「教員養成学校(IUFM)の受験者のうち3分の2は、大学入試以後、歴史の勉強をしていません」と、同校のジル・ラガシュ講師は言う。「入試では、歴史は選択科目ですしね」

 しかし、さらに悪いことがある。新しいカリキュラムでは、歴史の時間割が短縮される恐れがあるのだ。歴史は、美術や音楽と同様、選択科目に格下げされるのではないかとも危惧されている。「初等教育に現代諸語と技術が導入されたことで、ほかの科目がかなり削られるのです」と、あるIUFMの責任者は言う。「歴史はまちがいなく危ないですね」

 カリキュラムは(ましな場合でも)削減され、教師の教育水準はさらに低下し、生徒はいっそう無知になる。高校では、さらに圧縮され、往々にして偏向した内容の知識を吸収することが、なおさら困難になるだろう。こうして、要所を占める歴史の偽造者たちが、ギー・モレの路線を忠実に踏襲して、若者達の記憶を操作する。「植民地解放、アルジェリア戦争というのは、遠ざかる星に似ています」と、ある教師は言う。「それはすでに、天空の中の小さな点にすぎません」。小さな点。それは、他の条件が変わらなければ、明日にはもはや見られなくなってしまうだろう。

(1) フランスの高校(リセ)では、グランド・ゼコール(特別高等教育機関)の受験者を対象として、3年間の課程修了後に2年間の特別学級が設置される。[訳註]
(2) アルジェリアは保護領ではなく、フランス共和国の一部と位置づけられていた。[訳註]
(3) フランス議会は1999年、初めて法律に「アルジェリア戦争」の呼称を導入する法案を可決した。下院可決は6月10日、上院可決は10月5日であり、8月10日の日付の意味は不明。[訳註]
(4) フランスの小学校は6〜11歳までの5年制をとる。[訳註]
(5) 一般的に「入植者」を意味する仏語だが、アルジェリアのフランス系居留民をさす歴史用語として日本語でも用いられる。[訳註]
(6) 本稿中の引用には、中学4年生用・高校3年生用の1995年版・1999年版の教科書を用いた。
(7) 19世紀にアルジェリアを占領し、総督に任じられたビュジョー将軍は、現地住民の抵抗に対して焦土作戦を展開した。[訳註]
(8) フランスの中学校(コレージュ)は11歳から15歳までの4年制で、中学3年生(学年の名前は小学校から高校2年次までの降順で付けられるため第4学年と呼ばれる)は年齢では日本の中2に相当する。[訳註]
(9) サンドリーヌ・ルメール「善良な市民の育て方−歴史地理の通達と教科書にみる植民地化と移民」(パスレル誌、ティオンヴィル、第16号、1998年春)
(10) ビジャール将軍は拷問の事実を頑なに否定する発言を繰り返している。[訳註]
(11) メッサリ・ハッジはアルジェリア民族運動の先駆的指導者。フェルハド・アッバースはFLNの幹部の一人で、1958年に樹立されたアルジェリア共和国臨時政府の首班を務めた。[訳註]
(12) フランス第四共和制は「アルジェリア地方の反乱」の激化の中で崩壊し、ドゴール将軍の復帰を受けて第五共和制が成立する。[訳註]
(13) 第二次大戦下、ゲシュタポの隊長だった人物で、80年代末にフランスの裁判所で裁かれた。[訳註]
(14) アルジェリア戦争当時、落下傘部隊の師団長としてアルジェに駐屯し、民族主義者を弾圧した。本文で後述されるように、拷問に関与したことを手記や発言を通じて認めている。[訳註]
(15) フランス植民地政府に対する北アフリカ諸国の独立運動の闘士を意味する。語源は「追い剥ぎ」をさす現地のアラビア語。[訳註]
(16) 1945年5月、東部の港町セティフで、連合軍の勝利を祝う民族主義者のデモ隊と警察が衝突したことをきっかけに騒擾が広がり、近隣地域で100人前後の白人を含む公式1500人、推定万単位の住民が殺害された。[訳註]
(17) 1955年8月、東部のフィリップヴィル(現スキクダ)近辺で、民族主義者のテロによって婦女子を含む123人の白人が殺害された。[訳註]
(18) アルジェリア戦争は1954年11月1日に始まり、1962年3月に結ばれたエヴィアン協定によって終結する。[訳註]
(19) アルジェの民族主義者を抑えつけたマシューらが、政府のアルジェリア政策を不満として武装蜂起した結果、第四共和制は崩壊し、ドゴールが政権に就いた。しかし、ドゴールが停戦協定に動くと右翼勢力はクーデタを企て、これが失敗に終わった後も秘密軍事組織を通じて工作活動を続けた。[訳註]
(20) 独立以前アルジェリアに住んでいたフランス人の俗称[訳註]
(21) 本文中に後述されるように、拷問に反対して辞任を表明し、60日間の重禁固に処せられた。[訳註]
(22) 1960年9月、サルトルなど121人の知識人が「アルジェリア戦争における服従拒否の権利についての声明」を発表した[訳註]。ドミニク・ヴィダル「フランスの良心を示した『売国者』たち」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年9月号)参照
(23) 後出の2作ともども、戦時下に発表され、アルジェリア戦争の実態を公にした著作の名前。本稿の筆者も反戦の立場から1961年に『拒否』を著している。[訳註]
(24) レ・タン・モデルヌ誌に関係していた哲学者のフランシス・ジャンソンを中心として、徴兵忌避者・脱走兵やFLN活動家を支援していた地下組織が摘発され、証人として喚問されたサルトルは、政府を糾弾する証言書を渡航先から送りつけた。[訳註]
(25) バンジャマン・ストラ『壊疽と忘却』(ラ・デクーヴェルト社、パリ、1998年)による。
(26) アルジェリア戦争の際に補充兵としてフランス側についたアルジェリア人[訳註]
(27) 視学総監が中央政府の官僚であるのに対し、視学官は県レベルの公務員である。教育行政ではその間に学区がおかれ、小学校から大学までを学区長が統轄する。[訳註]


(2001年2月号)

* 改訳の上『力の論理を超えて』に収録、NTT出版、2003年8月

* 筆者名のカタカナ表記「マシーノ」を「マスキノ」に訂正(2003年5月3日)

All rights reserved, 2001, Le Monde diplomatique + Hagitani Ryo + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)