解体された都市空間

リチャード・セネット(Richard Sennett)
ロンドン・スクール ・オブ・エコノミクス社会学教授

訳・渡部由紀子

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 人々はそこに匿名性を、多様性を、つまり、見知らぬ者が近くにいることがもたらす出会いの自由を求めていた。しかし都市は、同時に集団や連帯を通じた闘争の場でもあった。そして今、階級制は終わり、労働組織は「柔軟化」すると語られる。しかし、その新しい生産様式が都市の魅力を薄めてしまう恐れもある。なぜなら、運命共同体と無縁となったエリート層の移動を促すために、仕事や建物はどれも同じようなものになり、何かに入れ込むよりも引くことの方が賢明とされるからだ。都市はもはや、意外性と出会う場所ではなくなっていくのだろうか。[訳出]

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 都市は時として、ずさんに放置され、犯罪が多発し、汚れて荒れ果てた姿を見せる。それでも多くの人々は、どんなに悲惨な場所であっても、都市で暮らす価値があると考える。なぜだろう。それは、都市が私たちを複雑な人間に育てるからだ。都市とは、人々が未知の他人とともに暮らし、それまで知らなかった経験や関心を共有することを学ぶ場である。精神は画一性によって鈍くなり、多様性によって研ぎ澄まされる。

 都市はまた、そこに住む者の自己認識をより豊かなものとする。銀行員や道路清掃人、アンチル諸島出身のアフリカ系やアングロサクソン系、英語を話す者やスペイン語を話す者、ブルジョワやプロレタリアといった単純な分け方を超えて、どれかに当てはまるかもしれないし、どれにも当てはまるかもしれない。というより、彼らの自己規定は固定していないのだ。付き合う相手に応じて違う人間になれるから、多様な自分のイメージを作り上げる。それはつまり多様性の力、勝手な決めつけに縛られない力だ。

 作家のウィラ・キャザーは、1906年、ニューヨークのグリニッチビレッジにやって来た。それまで彼女は米国の片田舎で、自分がレズビアンであることが発覚する不安につきまとわれていた。そしてニューヨークから女友達にこんな手紙を書いた。「この不可解な場所で、私はようやく呼吸することができる」。都市の住民は、公共の場では無表情の仮面を被り、道行く他人に無関心に振る舞う能力を身につけているかもしれない。しかし私生活では、新しい出会いから刺激を受けもするし、それまで信じていたことを他人によって揺さぶられたりもする。

 とはいえ、都市のこうした美点に常に遭遇できるとは限らない。都市生活が投げ掛ける最も大きな問題は、どうすれば、そこに秘められた複雑な要素をうまく相互にぶつけ合い(人々をよりコスモポリタンな存在にし)、人であふれる街路を恐ろしい空間ではなく、人が自分を知る場所にできるのかということだ。哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、「見知らぬ者が近くにいること」について語っているが、この表現は私たちが街の在り方を考える際に持つべき意識を見事に表している。

 建築家や都市設計家は、この点で新たな困難に直面している。グローバリゼーションが生産様式を大きく変えた結果、給与所得者が柔軟な働き方をするようになり、都市生活が様変わりしたからだ。

 19世紀、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは近代の企業組織を軍隊組織にたとえた。どちらも同じピラミッドの原理に従って動き、頂点には将軍または社長、底辺には兵士または労働者がいる。職務を分業化することで重なりがないようにし、底辺にいる労働者グループのそれぞれに特定の仕事を割り振る。この頂点に立つ企業のトップから、組立ラインやオフィスに仕事の指示が下される。遠方に展開した部隊に将軍が戦略を指示するのと、まったく同じである。さらに、分業が広がるにつれ、さまざまな職種の労働者に対する需要が、経営幹部に対する需要を上回るスピードで増大した。

 工業生産の分野では、ウェーバーのピラミッドはフォード方式として具体化されている。そこでは、労働者の労働時間と活動の配分が、頂点にいる何人かのエキスパートによって、まるで軍隊の縮小版のように練り上げられている。その最も明確な例は、米国ゼネラル・モーターズのウィロー・ラン工場だった。縦1500メートル、横400メートルほどの大きさの建物で、片側から鋼鉄とガラスが搬入され、もう一方の側から車となって出てくる。厳密に組織化された労働システムのみが、このように大規模な生産を成り立たせることができる。第三次産業でも、1960年代のIBMのように、これに似た極度に構造化された企業組織が現れた。

 企業がウェーバーのトライアングルに抵抗を示すようになったのは、20年から25年ほど前のことだ。「脱階層」、すなわち事務組織の途中段階を(事務要員の代わりに新しい情報技術を使うことで)省略し、決まりきった仕事を与えるかわりに、特定業務に短期的に専任するチームを編成しようという流れが生まれた。この新しい戦略の下では、それぞれのチームは互いに競い合い、トップの決めた目標をできるだけ速く達成しようと努力する。そこでは、各自がはっきりと定められた指示系統の中で特定の位置を占めるわけではない。業務は重なり合い、さまざまなチームが同じ仕事をより速く、よりうまく進めることを競うようになった。こうして企業は需要の変化にうまく対応できるようになった。

 新しい労働システムを支持する者は、このシステムが古い組織よりも民主的であるといったことも主張するが、そんなことは絶対にない。ウェーバーのピラミッドは円にとって代わられ、その中心では少数の経営幹部が決定を下し、任務を定め、結果を評価する。これらの経営幹部は、情報革命のおかげで旧体制のときよりも直接的に社員の仕事ぶりを監視できるようになっている。その中で、円の周辺部に新設されたチームは、中央によって決められた生産目標にどうやって対応するか、どうやって他のチームと競い合いながら業務を遂行するかを自由に決めることができるが、その業務自体を自由に決めることはできないのである。

トレンドは規格品

 ウェーバーのピラミッドの図式では、自分の仕事をできるだけうまく遂行することで表彰された。中心を持った円の中では、他より優位に立ったチームに報奨が与えられる。経済学者のロバート・フランクは、このシステムを「ウィナー・テーク・オール(勝者の総取り)」と名付けた。単なる努力はもはや報われない。フランクは、柔軟性を奨励する企業の中で、この新しい方式が給与および賞与の格差を広げていることを指摘する。

 この柔軟な職場の合い言葉は、「長居は無用」である。そこで働く人々は、キャリアを積み重ねるかわりに、特定の限られた業務をこなしていく。一つの任務が終わると、雇用はしばしば削減される。シリコンバレーのハイテク部門では、標準雇用期間は8カ月である。人々はコンスタントに仕事のパートナーを変えていく。一つのチームの「消費期限」は1年を超えてはならない、というのが現代の企業経営のセオリーとなっている。

 このモデルは、労働全般を支配するには至っていない。新しい企業はもはや終身雇用を望んではいない、という変化の方向を表しているにすぎない。しかし、企業の求める柔軟性は、民主主義にもまして仲間意識を育てるには向かない。つかみどころのない企業に入れ込むのは難しい。自分に尽くしてくれるという証拠を示さない不確かな組織に忠誠を尽くすのは難しい。企業の経営者も、こうした熱意の欠如が生産性の低下や機密保持への無関心を招くことに気が付いている。

 「長居は無用」の原則に言い表される仲間意識の欠如は、さらに微妙な現象である。仕事が特定業務に限られているという認識は、給与所得者に巨大なプレッシャーを加える。そして負け組が不平を言い立てるといった状況は、共同作業が成り立たなくなったことを決定的に示している。繰り返すが、形にならない信頼感は育つのに時間を必要とする。相手を知ることを学ばなければならないからだ。一つの企業に一時的にしか所属しないとすれば、どうせいなくなるからと、人間関係に距離を置き、深くかかわろうとしなくなる。

 さらに、シリコンバレーのように柔軟性を心がける産業や企業では、かかわり合いになるのを避けようとするから、労働組合になかなか人が集まらない。運命をともにし、共通の関心を先々も共有する仲間という意識は弱くなった。社会的に見ると、短期決戦型のシステムは矛盾を生んでいる。人々は大きなプレッシャーを受けながら集中的に働くが、他者との関係はきわめて表面的なものにとどまる。他人に現実にかかわることが長い目でみて多くの意味を持つという社会ではないのだ。

 資本主義の求める柔軟性は、都市の在り方にも同様の影響を及ぼしている。生産システムの柔軟性が職場の関係をより表面的なものにしているのと同様に、資本主義は街の人間関係を表面的で距離を置いたものにする。このことは、三つの形で表れている。最も目に明らかなのは、都市との物理的なつながりの面だ。柔軟に働いている人の間では、地理的に移動する割合が非常に高い。労働市場の唯一の急成長分野である派遣業は、労働者に度重なる転居を強いる。経済のさらに上の部分を見ると、管理職の転居が多いのは現在も過去も変わらないが、その要因は変化している。過去には管理職は企業の習慣にしばられ、企業が地図など気にも留めずに彼らの居場所や道筋を決めていた。まさにこの関係が、新しい労働方式によって打ち砕かれた。こうしたエリートにとっては、都市における生活様式こそ雇用以上に重要なのだと主張する都市研究者もいる。流行の先端をいくレストランや特別なサービスのあるシックな地区が、企業に代わる安住の地となるのかもしれない。

 新しい資本主義の都市への影響は、環境が規格品と化していることにも表れている。何年か前、ニューエコノミーに区分される、ある大企業の経営者が、超近代的なオフィスと壮麗な公共スペースを持つアールデコ様式の宮殿のようなニューヨークのチャニン・ビルを訪れたとき、こう言い放った。「ここは向いていない。みながオフィスに過剰な愛着を持つようになって、居着くようになってしまうかもしれない」

 柔軟な仕事のためのオフィスは、巣を作る場ではない。柔軟な企業の経営組織は、素早く模様替えできる物理的環境を必要とする。極端に言えば、「オフィス」は結局のところ、端末にすぎない。最近の建築が無個性なのは、投資対象としての交換価値が考えられているせいもある。マニラにいる人が、ロンドンにある約1万平方メートルのスペースを簡単に取引するためには、このスペース自体に通貨と同じ単位性と透明性が備わっていなければならない。そうしたわけで、ニューエコノミーの建築設計の基本的原則は、エイダ・ルイーズ・ハクスタブルが「表皮建築」と名付けたようなものとなる。つまり、建物の外観にごてごてと装飾を付け、内部の空間はなるべく無個性な規格品にして、すぐに模様替えできるようにしておくのだ。

 こうした「表皮建築」と並んで、大衆消費も規格品に向かいつつある。マニラでもメキシコでもロンドンでも、世界的なチェーンが同じ商品を同じような空間で売っている。ギャップやバナナ・リパブリックなどのチェーン店の、ある一つの店舗に執着するというのは考えにくい。規格品は無関心を生み出すからだ。言い換えると、職場組織への忠誠心の問題が、(この間までひたすら組織変更の繰り返しに熱意を傾けていた)経営者の悩みの種になり始めているが、都市住民と消費との具体的関係にも同様の構造が見られる。特定の場所に対する愛着や思い入れは、この新しいシステムの中で溶け去っていく。都市は未知のものや予期せぬもの、そして刺激をもたらすのを止める。そして、共有される歴史や共通の記憶の所産は、この公共スペースの無個性の前で消えていくのだ。労働者が内に秘め、共有する記憶を、新しい職場環境が弱めるのと同じように、規格品に収束した消費活動が、それぞれの地方の特色を薄れさせている。

企業は「受け身の恋人」のように

 新しい資本主義の第三の影響は、他の二つよりも目に見えにくい。プレッシャーの下で行われる柔軟な労働は、家族生活に深い混迷をもたらす。放任された子供、ストレスを抱える大人、地理的な足場の喪失といった紋切り型のマスコミ報道は、人々のよりどころの喪失の核心を突いてはいない。つまり、もし現代の労働システムを支配する行動規範が家族の領域にまで適用されて、深入りせず、熱中せず、物事を短期で考えるというのなら、家族は崩壊してしまう。世論や政治家が「家族の価値」を呼び掛けているのは、保守派の影響のためばかりではない。それは、家族の連帯に対するニューエコノミーの脅威を前にした人々の、素朴ながらも非常に切実な反応なのだ。クリストファー・ラッシュは、家族を「非情な世界の中のパラダイス」と呼んだ。仕事が大人にとって、不安定であると同時に時間を取るものとなっているだけに、重みを持つイメージだ。こうしたせめぎ合いが何をもたらすかと言えば、中年層の労働者に関して進められた研究によると、大人が家族生活の安定と構築に必死になっていて、社会参加をしなくなったことだという。社会参加もまた、家庭で補給できるとは限らない時間と労力を必要とする。

 こうなると、グローバリゼーションが都市にもたらしたもう一つの影響にも触れなければならない。世界の新たなエリートは、ニューヨークやロンドン、シカゴなどの都市で仕事をしながら、市政にかかわることを避けている。彼らはその街で活動することを望んでいるが、街の運営に携わろうとはしない。それは、責任なき権力の体制である。

 たとえば1925年のシカゴでは、政治の権力と経済の権力は切り離せないものだった。市の主要80企業の経営者は142の病院の理事を務め、大学教育機関の理事の70%を占めていた。シカゴにあった国営企業18社からの税収は、市の予算の23%に上った。対照的に、現在のニューヨークでは、世界的企業の経営者が学校の理事を務めるケースはまれで、病院の理事に至っては皆無である。それに、ルパート・マードック氏のニュースコープ社のように身軽な多国籍企業が、いかにして地方税からも国税からも逃れているかは、よく知られている。

 こうした変化の原因は、世界経済がもはや、市政に従うという意味で都市に根を下ろさなくなったことにある。その反対に、文字どおりの島国経済が、ニューヨークのマンハッタン島や、建築物としてはロンドンのカナリー・ワーフなどで、一昔前の城塞のように栄えている。社会学者のジョン・モレンコフやマニュエル・カステルが論証するように、こうした世界的富は、世界経済の飛び地を超えて外へ広がることも、あふれ出ることもない。

 しかも、この飛び地という戦略は、プルーストがまったく別の文脈で「受け身の恋人」現象と呼んだような、都市への無関心を育んでいる。多国籍企業が世界のどこかよそに行ってしまうと脅せば、都市は莫大な免税を示して引き留めようとする。こうした誘惑が成り立つのも、企業がどこに留まるかには関心がないという態度を見せているからだ。言い換えれば、都市のレベルでも国家のレベルと同様に、グローバリゼーションが市民権の問題を提起している。都市はこれらの企業の資金を捉えることができず、企業は都市にいても責任はほとんど負わない。立地移転という脅迫が責任の拒否を可能にしている。要するに、気まぐれで柔軟な企業体を相手に、市政から享受する特権に見合う貢献を求めるような政治的メカニズムがないのだ。

 これらすべては、都市の「市民社会」に影響を及ぼしている。この社会は、相互の分離を原則とする妥協、つまり、他人事には関与しないという合意の上に成り立つ。これは現代の街の在り方にもかかわっている。現代の街は、よく言えばアコーディオンのようなもので、容易に広がって新しい移民の波を受け入れる。人々の差違が空間の裂け目となる余地はない。悪い面から見ると、分離という妥協は、対立する利益の理解を必要とする社会生活の実践を葬り、他人に対する単純な好奇心を失わせる。

 それと同時に、新しい職場の柔軟性が、一種の不完全燃焼感を生み出している。柔軟な時間の流れは前に進んでいるというより、単に進んでいるだけだ。一つのプロジェクトで働き、続いて別のプロジェクトで働くにしても、そこには何のつながりもない。とはいえ、自分自身の欠落感から他者に向き合い、「見知らぬ者が近くにいること」(レヴィナス)に向き合うというのも的が外れている。

 そう考えると、よりよい街の在り方をどのように考えていくべきかが見えてくる。かつて家族の活動が職場に入り込んでいたように、同じ空間に異なる活動を盛り込んでいくべきだ。資本主義の時間が不完全であることに気づいた私たちは、工業都市が初期に直面した問題に立ち戻る。

 工業都市は「ドムス(1)」という空間的な関係を解体した。工業時代を迎える以前、そこでは家族、仕事、儀式のための公的空間、より非公式なその他の社会的空間とが結び付けられていた。ただ進行しているだけの現代の労働時間に対抗するためには、空間のこの集合性を取り戻さなければならない。

(1) 一般的には「家、故郷」の訳語が与えられるラテン語[訳註]


(2001年2月号)

All rights reserved, 2001, Le Monde diplomatique + Watanabe Yukiko + Saito Kagumi

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