人間性の創出

エドワード・ボンド(Edward Bond)
劇作家、イギリス

訳・北浦春香

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 今どうして未来が問題となるのだろうか。人類はついに生存手段を保証されたのではなかったか。問われているのは、我々の「人間性」である。犬を指して、その犬の態度が犬らしくない、などと言う人はいない。しかし、人間の行動について非人間的である、と述べることはままある。ここで示されているのは表現上の問題ではなく、分析上の問題なのだ。人間性を構築するのも、非人間性を構築するのも、我々自身である。理知がありさえすれば人間である、とは言えない。啓蒙思想の限界は、理知が堕落の源となり得るところにあった。我々が人間であるのは自意識を持っているからだ。想像力なくして自意識はあり得ない。二つは一つだ。想像力がなければ、我々は現在に閉じこめられ、思索も不可能になる。想像力こそ人間性の源である。

 想像力は幻想の中ではなく、「現実」の世界に足場を求める。それは技術を介して自然と現に関わろうとする。問題は、我々にも自然にも、存在理由が実在しないことだ。我々の眼前にあるのは空虚だが、想像力が人間の生に理由を、すなわち目的を与える。それが、神その他の思想である。こうした目的を志向することで、人間性が創出されるのだ。

 我々の生存手段は、三次元空間と時間という四つの次元の世界のものだ。我々はその中で、耕し、作り、殖え広がる。そして、人間性が生み出されるのは第五の次元だ。第五の次元とは、想像力が切り結ぶ断層である。第五次元は他の四つの次元とつながっており、四次元に由来を持たないものが第五次元に現れることはない。人間性は物質的なものであり、超越的なものではないのだ。しかし第五次元には独特の要請がある。我々はそれに従って、他の四つの次元を思想や芸術に変貌させる。これが価値の、そして実存の意味の源泉である。そこに我々は自らの目的を創り出す。例えば、兵士は人を殺し、また殺されることの意味を見いだすのだ。

 目的を欠いた精神は一貫性を欠くことになる。我々は他の四つの次元との論理的な関連において目的を選択する。第五次元の構造として、なにか独立した実体があるわけではない。その神や思想は虚構にすぎない。しかし、第五次元とは自意識と同義であり、その虚構は現実の力を持つ。こうして、魚が海によって魚となるように、我々は人間となる。ただし、魚は魚であることを選びはしない。第五次元は常に緊張状態にあり、人間性は劇におけるアゴーン(1)に等しい。その理由は二つある。一つ目は、技術を介した四次元と我々との関係が変化すれば、人間性を持つために新たな目的を創り出さなければならないことだ。人間性は歴史に依存する。二つ目は、我々が子供として生まれてくることである。新生児は四次元について何も知らない。子供にとってはすべてが第五次元にある。子供の想像力は第五次元の中で世界を構築する。それは同時に、人間性の創出の過程でもある。自我はそれ以降、実際の現実の世界(すなわち四次元)とメタファーの世界という、二つの世界で生きるようになる。劇の源はこの二元性にある。そしてアゴーンとは、突き詰めれば二つの世界の関係にほかならない。人間性の創出といってもよい(他者との軋轢は、「彼ら」が「自分」ではないところから生まれる)。

 子供にとって第五次元での目的はただ一つ、自分が安心できる世界を構築することだ。子供は世界を解釈する必要に迫られる。想像力は理知を求めるが、精神が成長するに従い、四次元の論理、そしてそこから派生する社会の論理が第五次元の構造を定めるようになる。世界の中での安心という子供の願望は、必然的に正義への願望に変わる。これが、人間の歴史を突き動かす唯一の動因である。しかし、それはまた堕落への道でもある。社会が公正でない以上、子供は社会に加わるために堕落しなければならない。歴史を振り返れば、堕落だけが人間性を創出してきた。社会が不公正であるがゆえに、想像力が理知を求めれば、社会的な逸脱と見なされる。こうして、歴史は矛盾と曲折に満ちたものとなる。

 機械は常に我々よりも「賢明」である。犂は農夫よりも現実に近い。犂には第五次元がない。我々の知識とは、無知を知ることにほかならない。そこにファウスト(2)の罠が生まれる。技術の力が強まるにつれ、我々の知識は増えていく。しかし、技術の力によって無知の部分が減ることの影響もまた深まっていく。我々はこのジレンマを解決できていない。このままいけば、進化の論理に従って我々は人間であることをやめ、動物かロボットのようなものとして生き延びるしかないだろう。現在に至るまで、我々は途轍もない思想的混乱の内にあり、問題に順応することで事足れりとしてきた。

海を飲み込んだ魚

 ファウストの罠に陥ると、知識は増えるが行動は破壊的になる。人間性が心理的にもろいことに変わりはない。我々は恐怖を覚える。真理は常にゲットーの中にある。仮にアウシュヴィッツの向こうには世界が存在しないというのであれば、アウシュヴィッツこそ真理のゲットーということになるだろう。その理念は自由・平等・博愛であるかもしれない。だが公然と、あるいは今日の我々の社会のように隠然と、人間ではないと名指しされた人々を抹殺するものでないとは言い切れない。まさしくここにこそ、人間性の歴史がある。我々がアウシュヴィッツを非人間的であると断ずるのは、その外にまだ四次元の世界があり、その世界が第五次元との論理的な関連を保っているからだ。人間性を創出するためには、この世界を第五次元でもって捉えなければならない。我々は自らの内部に海を飲み込んだ魚に似ている。歴史的に見れば人間性は不完全である。我々に人間性をもたらしてきたのは、奴隷や犯罪者であった。これらの人々は、ゲットーの真理と正義によって堕落することがなかったからである。

 危機の時代に頼みにできるような生来の、あるいは超越的な人間性など存在しない。人間性は、神や遺伝子によって保証されているわけではない。それは第五次元という断層において、想像力によって生み出される。この断層を切り結ぶのは、四次元という生存手段と我々との実際の関係であり、また、幼年期から引き継いだ正義への願望である。正義への願望は、不公正な社会の中で理知によって簡単に堕落する。四次元と我々の関係は技術によって変容し、それにつれて思想が変化し、文化の総体が変化する。我々は目的を新たにする。人類の問題は変わらないが、それに対する答え、つまり目的が変わるのだ。我々は目的によって人間となる。現代の問題は、我々がもはや目的を持たないことにある。我々はただ手段のため、消費のために生きている。第五次元は、我々が欲求を満たすための過程、つまり手段との合理的なつながりを失った。その構造をひもとけば、技術が世界規模のものとなった結果、我々にとって地球が存在しなくなってしまったかのようだ。現実は虚構となった。その帰結は悲惨である。我々は人間性の創出をやめてしまったのだ。

 想像力は理知を求める。四次元の世界で安心して生き、社会で公正な扱いを受けることを求める。人間の目的はそこにある。だが、手段は目的に取って代わることができない。手段には意味も理知も認められない。なぜなら目的を欠いているからだ(犬は犬であろうとして餌を食べるわけではない)。消費は目的となり得ない。消費はさらなる消費を招くばかりだ。目的が放棄されれば、どうしても手段に没入するようになる。ますます多くの消費を求めながら、充足感は薄まる一方である。

 アウシュヴィッツという「真理のゲットー」を外から見る者には、その構造が人間性を生み出し得ないことがわかる。宇宙の外から眺める者には、今や人間全体が人間性を生み出すのをやめてしまったことがわかるだろう。我々はそのための構造的な力を失った。現代はポスト・モダンではなく、死後の時代である。この記事を読んでいるあなたもまた死人だ。我々は、あふれるほどの技術という生命維持装置によって生き長らえているにすぎない。我々が死人となったのは、環境という自然の四次元を破壊し、自らの墓を掘ったからではない。第五次元を破壊しているからだ。それは超越主義が招いた危機である。我々は非人間性を追求しているというのが事実なのだ。これが我々の社会の目的、制度の目的と化している。

 思想や俗流の心理学では、我々は魂を宿した物質的な存在であるとか、あるいは超越的精神であると見て、人間性そのものが超越的であるとする。ここでいう超越とは断層、すなわち第五次元を指しており、その由来は物質的な世界にしかあり得ない。この関係を超越することはできない。それこそが人間性、あるいは非人間性を構築する。断層は、この世界の内部にあり、この世界に属するものだ。他に世界が存在するわけではない。それだけに、我々の危機は深刻である。他者に向けた行為は自らに差し戻される。

 経済とその技術は、経済構造上の必要から、世界的な発展に導かれる。ところが、経済は不平等に根差している。不平等によって人々は消費欲を駆り立てられる。より多くの商品を消費したいわけではない(そんなことにはすぐ飽きてしまう)。そこで求められているものは、自分は人間であるというイメージなのだ。経済的に見込みのない存在、社会から棄てられた存在、文化的に排除された存在、一言でいえば非人間的な存在から、自分を切り離したいということだ。我々は人間性の創出のために不平等を必要とする。これは、正義の必要という我々の根本的な要求に相反する。

罪と無垢

 このジレンマはあらゆる文化に共通するが、我々のものは史上最悪である。過去においては共同体が、奴隷や犯罪者、人種・文化・宗教を異にする人々など、アウトサイダーに対して一丸となることによって、集合的に人間性を創り出していた。現在、もはや共同体は存在しない。組織がそれに取って代わった。グローバリゼーションは、世界全体を技術経済に引き入れる一方で、個人を完全に疎外する。消費者は市場の中で孤立する。想像力はもはや正義を求めることができない。なぜなら正義の追求は共同体において共有されなくてはならないからだ。想像力が正義を求めることができず、正義が目的となり得なくなれば、想像力は世界に安住できなくなる。そして、世界を恐れるようになる。こうして正義への願望は堕落し、復讐への願望に変わる。我々の社会は復讐の社会である。

 人間性が復讐によって生み出されることはない。

 第五次元の断層を座とする想像力は、四次元の世界との論理的な関連を失い、現実から切り離された。想像力は理知を求めながら、不合理を見いだす。我々の行動は非人間的なものとなる。現代ほどではないにせよ、同様の例は過去にもある。キリスト教の愛の哲学は異端審問という暴力を生んだ。人間の理想像を生み出したギリシャ人は奴隷を虐待した。啓蒙思想はアウシュヴィッツやヒロシマを阻止できなかった。現在では、さらに問題が極端になっている。グローバリゼーションは地球規模のゲットーを生み、その内部には固有の真理が見いだされる。我々はファウストの罠に陥った。超越主義は絶頂に達し、世界は普遍のアウシュヴィッツと化す。これが、私の新作『21世紀の犯罪』の舞台となる世界である。

 もちろん、このようなことはすべて誇張と見えるかもしれない。しかし歴史に誇張はない。かつて、アウシュヴィッツやヒロシマは思いもよらぬことであった。しかし、思いもよらぬことは必ずや避けられぬことになる。もし我々が、未来へ旅をし、その時もまだ人間であることをやめていなければ、過去に人類が行い得た最悪の行為として、アウシュヴィッツを哀惜とともに想い起こすだろう。我々が現在、四次元という環境を完全に破壊し、そこがもはや我々の安住の地でなくなったとすれば、末期に及んでなお我々が人間であるということに何の意味があろうか。だが、我々にはそれすらも問うことができない。環境破壊は、社会の内に正義を求めることをやめ、人間性を創出する唯一の方法を失ったことの帰結にすぎないのだから。

 救いが一つある。我々が生まれたときには子供であることだ。子供は世界の中に安心を求める。そこに子供の根源的な無垢がある。それは不活の無垢ではなく、プロメテウス(3)の無垢である。我々には、幼年期にさかのぼる正義への願望がある。これが唯一、我々が歴史に付与した動因である。ただし、その動因は堕落している。法は正義の制度ではない。不公正な社会によって堕落しているからだ。正義の制度となり得るのは劇だけである。精神は劇の場であり、アゴーンである。しかし、不公正な社会によって収奪され、宗教や思想に、さらにはビジネスに変えられるなら、劇もまた堕落する。テレビや映画は、正義の追求というギリシャ演劇の目的を堕落させ、罪悪や復讐、処罰といった強迫観念に変えた。シリアスな演劇でさえ、正義を求めることをやめ、「ゲットー化」した。それは死に絶えた人間性、あるいは空疎な合理主義に寄生するものでしかなく、堕落に抗することができない。

 反動の暴力に対抗するには、演劇はあまりに非力と見えるかもしれない。しかし想像力には現実の力があり、過去に人間性を創出してきた。自らの敵となる引き裂かれた精神、この争い、このアゴーンを、演劇は客体化し、理知と想像力を対決させるのだ。しかし、その前にまず、劇の可能性への信頼を取り戻さなければならない。我々は新しい演劇を必要としている。

 我々は究極の悲劇的状況を舞台に乗せなければならない。悲劇のヒロインやヒーローは、罪を犯すことによって己の無垢を見いだす。それは「事件の時間」の内に、アンティゴネ(4)の瞬間に訪れる。それを目にする者は裸にされ、選択を迫られる。観衆は自分が何者であるかを定め、構築しなければならぬ。無垢を選ぶのか、堕落の道に戻るのか。このリスクなくして人間であることはできない。堕落を選ぶなら、その帰結を見せつけられる。無垢を選ぶなら、その無垢は根源的なものとなる。これが悲劇の応報である。根源的な無垢こそ人間性の定義にほかならない。

 宗教、ナショナリズム、超越性、自由、平等、博愛、言論の自由といった諸々の権利は、堕落の可能性があるが故に、人間性を生み出すことができない。過去においては、少なくとも状況の改善に役だちはした。しかし、これらの権利は、世界規模のゲットーの中で、アウシュヴィッツの扉に記されたスローガン「労働は自由をもたらす(Albeit macht frei)」と同じぐらい空疎なものとなっている。新しい方法で問題を理解し、それに従って行動するために、我々には新たな理念が必要だ。その理念は単純である。誰もが人間である権利を持つということだ。これが新たな知の規範である。その後は革命的な展開が起きる。決定論の世紀が打ち壊され、我々が再び人間性を創出できるようになれば、我々の現代の悲劇は人間喜劇と化すことだろう。

(1) 古代ギリシャ喜劇の中で、相対する説を持つ二人の登場人物が議論を戦わせるくだり。エドワード・ボンドによると、この対決こそ人間の矛盾であり、劇の中核をなす。
(2) ファウストはドイツの伝承中の人物で、悪魔と契約して知識を得た。[訳註]
(3) プロメテウスはギリシャ神話に現れる巨人で、人間に知識をもたらした。[訳註]
(4) アンティゴネはギリシャ悲劇のヒロインで、理不尽な命令に逆らったために幽閉され、自死を遂げる。[訳註]


(2001年1月号)

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