教育に忍びよる五つの危険

リッカルド・ペトレラ(Riccardo Petrella)
欧州委員会顧問、ルーヴァン・カトリック大学教授(ベルギー)

訳・北浦春香

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 ここ30年来、人々の生活は、あらゆるモノとサービスに広まったハイパー消費と商品化、新技術の爆発的進歩、そして自由主義的なグローバリゼーションを軸に動いてきた。このような政治的、社会的、経済的な変動によって、教育現場に五つの大きな危険が忍びよっている。

 第一の危険は、教育がだんだんと「人的資源」育成のための手段となり、この役割が、人間のための、人間による教育より優先されるようになることだ。その背景には、労働力が単なる「資源」の一つに還元されつつあるという状況がある。つまり、企業にとっての利用価値に従って、組織化され、格付けされ、使い回され、場合によっては廃棄される「資源」としての労働力である。他のあらゆる有形無形の資源と同様に、人的資源はどこでも調達可能であるべき経済商品と考えられている(1)。この人的資源には、市民的権利や、他の政治的、社会的あるいは文化的権利は認められない。その搾取が制限されるとすれば、ひとえに経済的な観点、つまりコストの問題からにすぎない。その生存と報酬の権利は、実績と採算性に左右される。人的資源は常に、自分が使える存在であることを証明しなくてはならず、このようにして「労働の権利」であったものが「被雇用性」の証明という新たな義務にすり替わっていく。

 これを「積極的な社会的労働政策」と呼ぶ政治家もある。そこで教育に大きな役割が見出されるとすれば、それは主に、この「被雇用性」の義務との関連に求められる。そして、それは生涯学習を通じて一生にわたって続く。生涯学習の意義は、国の人的資源を利用しやすく採算性のある状態に保つことにある。そこにはもはや、労働が社会的問題であるとの認識はない。

 第二の危険は、教育が非商業的な世界から商業の世界へと移行することだ。教育の主要な役割が企業に役立つ人的資源の育成とされるのであれば、教育の目標や優先事項といったものが民間資本の商業と金融の論理によって決められるようになったとしても、驚くにはあたらない。教育は日に日に、一つの市場として扱われるようになってきている(2)

 北米では「教育市場」「教育ビジネス」「教育関連製品・サービス市場」「教育事業」「教師・学生市場」といった言葉がしきりと口にされる。2000年5月23日から27日まで開かれた第一回世界教育見本市(World Education Market)が、カナダのヴァンクーヴァーを開催地としたのも偶然ではない。そこに集まった関係者にとっては、公共部門か民間部門かを問わず(3)、教育の商品化はもはや疑問を挟む余地のない流れであり、誰が、何を、どのようなルールに従って、世界市場で売るのか、が主要問題となっていた。

 「誰が」は既に明らかになりつつある。マルチメディア製品の制作企業、オンラインサービスや通信教育の企画や提供を行う会社、通信事業者、情報関連企業などだ。これらの分野はここ数年、すさまじいテンポで合併、吸収、提携を繰り返している。「何を」についても、既に多大な投資が進められており、こうした企業の多くはお手軽なオンライン教育プログラム各種を取りそろえている。このようにして、「バーチャル大学」が雨後の筍のように「国家」の枠を超えて広がっている。米国の投資銀行メリルリンチの調査によれば(4)、高等教育を受ける若者の数は、2025年には世界中で1億6000万人にまで増加するという。現在その数は8400万人で、そのうち4000万人がオンライン教育を受けている。これから四半世紀後、この市場がどれぐらいの規模のものになるか、想像に難くない。

 いわゆる「先進」国では、個人ベースの教育システムが、通信(インターネット)を利用して、時間を問わず一生にわたり、アラカルト方式で組み立てられる傾向が強まっている(5)。教育市場のルールについては、サービス貿易に関する一般協定(GATS)の課題に上がっているものの、1999年12月にシアトルで開かれた世界貿易機関(WTO)のミレニアム・ラウンド協議が失敗に終わったため、自由貿易原理の適用が当面のところ回避された。サービス分野についての協議は、その後ジュネーヴのWTO本部で再開されており、教育分野の自由化と規制緩和がふたたび取り上げられないという保証はない。

 実際、先進国では、教育の目的や組織を市場の決定に委ねてもよいと考える政治家がますます増えている。このようなシナリオの実現を阻止するためには、組合団体(特に教育インターナショナル)や政府機関、市民運動のより一層の努力が求められる(6)

知識社会の貴族とプロレタリア

 第三の危険は、各国が世界的な競争にさらされるなか、教育が個々人の生き残りを左右する手段のように言われることだ。教育現場は、生きるための素養(公共の利益を尊重しながら他人とともに生きること)を身につけるというよりも、戦うための素養(自己中心的に、他人の鼻を明かして成功すること)を習得する「場」に変質しようとしている。大学、公共機関、学生、親から組合の多くに至るまでが、そうした文化を概して受け入れてきた。このようにして、少なからぬ教師の努力にもかかわらず、教育システムは、ひとりひとりの能力を高めようとするよりも、優れた生徒を選別していく役割を持つようになってしまった。

 第四は、技術への教育の従属である。1970年代以降、社会変化の主要な原動力は技術にあると考えた政治家たちは、それが他のなにものにも優先し、それに適応することが緊急の課題だという考え方を人々に押しつけてきた。どのような応用分野(エネルギー、通信、保健、労働)であれ、新しい技術に関連した経済と社会の変化はおしなべて避けられず逆らえないといった見方から、技術がもたらす変革は人類と社会の進歩に寄与するものと言われてきた。

 大多数の政治家は、現在のグローバリゼーションを技術進歩の産物と見なしている。それに反対することは非常識とされる。従って、現在進んでいる変化を理解する能力と、それに適応するための手段を新しい世代に与えていくのが、教育の主な役割ということになる。

 第五は、教育システムが、新たな形の社会的分断を正当化する手段として使われることである。現在主流となっている考え方によれば、先進国の経済や社会は、有形の資源と物理的な資本(土地、エネルギー、鉄鋼、コンクリート、鉄道)を基盤とする産業の時代から、無形の資源と資本(知識、情報、通信、コンピューター)を中心とする知識の時代へと移行したという。

 マルチメディア、デジタル・ネットワーク、そして、そこから派生する「eビジネス」、「e交通」、「e教育」、「e企業」、「e労働者」といった革命から生まれたニューエコノミーは、知識を基本的な資源とする(7)。このような見方に立てば、企業は「価値ある知識」を推進し、組織化し、生産し、付加価値を高め、普及させる第一の主体であり、場であると捉えられることになる。

 学者や中等・高等教育機関に起業家精神や起業を広めること、教育システムを活性化し、「知識社会」の建設に向けて若い世代に教育を施すための場に変えること、これが研究・教育政策の眼目の一つとなっている。だが、このような政策が実施される一方で、「有能な」者、つまり「価値ある知識」へアクセスできる人々と、「有能でない」者、つまり「価値ある知識」へのアクセスから排除されるか、あるいはアクセスを維持できない人々の間の社会的分断が、世界各地で生まれつつある。この新たな分断は、基本的な識字教育の不平等といった従来からの分断をさらに深刻化する。知識というものが、貴族的な人的資源(これは地球的規模の新たな職業的ギルドとして組織化される)と、世界資本の新たなプロレタリアとなる庶民という人的資源の間に、新たな「知識の壁」を築く材料となるのだ。

他人の存在を認めること

 2000年3月にリスボンで開かれた欧州首脳会議でヨーロッパ15カ国の首脳が採った選択肢は、こうした五つの危険からヨーロッパの人々を救おうとするものではなかった。6月にフェイラで開かれた首脳会議で採択された行動プランに見られるように、ヨーロッパは、今後15年間の大きな優先課題として「eヨーロッパ」の建設を掲げ、2015年には世界でもっとも競争力のある「e経済」になるという構想を描いた。

 それに向けて、すべてのヨーロッパ人に幼稚園や小学校の段階からデジタル・リテラシーへのアクセスを与え、それによって既に10年以上先を行っている北米と競争しうる「人的資源」を育成することが第一の目標とされた(8)

 この分野では、ヨーロッパの指導者間に幅広いコンセンサスが形成されている。過去20年間、市場の競争原理に従って行った政策の結果を目にしても、この原理のもとでは勝者はほんのわずかであり、それは教育を含めどんな分野についても同様であるということが、まだ彼らにはわからないのだろうか? 情報通信技術、マルチメディア、インターネットといった分野で世界でもっとも「進んだ」国である米国の教育が、経済協力開発機構(OECD)の調査によればとりわけ嘆かわしいレベルにあることが(9)、どうして目に入らないのだろうか?

 英国に見られる基礎教育の惨状と、高等教育へのアクセスを特徴づける大きな社会的不平等に対して、どうして彼らは目をつぶるのだろうか? 子供の成長について学際的な研究が重ねられた成果として、子供は本質的に大人との密で個人的な関係を必要としており、幼い頃からコンピューターに重点を置いた教育をすれば、このような貴重な関係を奪いかねないと論じられていることを、どうしたら無視できるのだろうか(10)

 もっと違った教育政策についての適切で現実的な提案がないわけではない。例えば、1999年3月に、オクスファム・インターナショナルと教育インターナショナルが、「すべての人に質の高い公共教育を」と題した提言を行っている(11)。他人への挨拶を学ぶこと、これが「もうひとつの」教育の決定的な出発点となる。要するに、自分自身の存在と他人との共生の基本として、市民ひとりひとりに他人の存在を認めることを教えるという、教育システム本来の役割の回復である。

 人がひとりひとり向き合うということは、人間社会の歴史が他者の存在を核として動いてきたという認識を、単一と多様、普遍と特殊、全体と局所といった相対する要因の、創造と相克に満ちた緊張関係の中で学び取ることに他ならない。それはまた、民主主義と人生を学ぶことでもある。たとえ生産性や採算性といった基準から見れば低い評価しか与えられないものであっても、人間ひとりひとりが人類の共生に価値ある貢献をしていることを認める能力、すなわち連帯感を身につけるということなのだ。

 このような一般原則から出発して初めて、知識という「共用財(12)」の開発、保全、分配を中心に据えた教育政策によって、経済的に連帯性があり、社会的に有効で、政治面では民主的な発展を、世界規模で促進できるようになる。「eヨーロッパ」にこの教育政策を適用すれば、社会的経済、連帯経済、地域経済、協同組合式経済のような新たな論理に見合う見識と能力を備えた新しい世代の市民の育成に、力が入れられるようになるだろう。

 そして、知識の私物化という現在の傾向を弱め、知識を世界的な福祉国家推進のために役立て、すべての人に生きる権利を保障するために、世界の他の共同体、地域、人々との協力が最大限に重視されていくだろう。

(1) 「人的資源」という概念と実践を厳しく批判し、人権を基盤とすると称する社会でこのような語を使用することを止めるべきである。
(2) このような変化に対する批判として、ジェラール・ド・セリス「教育市場は将来有望」(ル・モンド・ディプロマティーク1998年6月号)参照
(3) ル・モンド2000年5月26日および30日付参照
(4) Merrill Lynch, The Knowledge Web, 23 May 2000.
(5) << Learning in cyberspace >>, Financial Times, London, 8 March 1998、および欧州産業家円卓会議「知識への投資―ヨーロッパ教育への技術の統合」(ブリュッセル、1997年2月)参照
(6) この点について、教育インターナショナル(ブリュッセル)および公共サービス・イ ンターナショナル(パリ)が1999年に「WTOとミレニアム・ラウンド−公共教育への課題」という優れた報告書を出している。
(7) Our Competitive Future. Building the Knowledge Driven Economy, Department of Trade and Industry, London, December 1998、欧州委員会「教育と学習―認知社会へ向けて」(ルクセンブルク、1995年)、およびレスター・C・サロー『富のピラミッド』(山岡洋一訳、TBSブリタニカ、1999年)を参照。 
(8) 欧州連合理事会および欧州共同体委員会「eヨーロッパ−万人のための情報社会」 (ブリュッセル、2000年6月)参照
(9) OECD, Education at a Glance : OECD Indicators1998, Paris, 1998.
(10) Alliance for Childhood(http://www.allianceforchildhood.net)の分析を参照 
(11) ケヴィン・ワトキンズの報告書「万人のための教育―貧困の循環を断ち切ろう」 (オクスファム・インターナショナル、ロンドン、1999年)を参照
(12) インゲ・カウル「グローバル公共財という考え方」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年6月号)参照


(2000年10月号)

* 後ろから四段落目および脚注(11)「オクスファム」を「オックスファム」に訂正(2003年2月12日)

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