アボリジニの夢はいずこ

ミッシェル・デクースト(Michele Decoust)
著書『オーストラリア、夢の足跡』、ジャン・クロード・ラテス社、パリ、2000年3月

訳・安東里佳子

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 1998年5月26日のことだった。100人ほどのアボリジニたちが、北部準州の行政首都ダーウィンの議事堂前に集まった。この日は謝罪の日、“National Sorry Day”として、オーストラリア全国で「盗まれた世代」のことが思い起こされた。1960年代の終わりまで1世紀以上の間、政府の命により、白人の血の混じったアボリジニの子供たちは母親から無理矢理に引き離され、「お行儀のよいオーストラリアの子供」になるために、孤児院やホスト・ファミリーのもとへ送られた(1)。“Keep Australia White”つまり「白豪主義」が合言葉だった。最初の入植者による虐殺や居留地内での半奴隷扱いの時代が過ぎると、彼らを「人間以下」の状態から引き上げ、自分がどこからきて誰なのかを忘れさせるために、赤ん坊のときからすぐに力ずくの同化を押しつけることだけが追求された。

 先住民の状況に関する英連邦会議は1937年に「アボリジニの混血児の未来は、白人世界への最終的な吸収にしかあり得ない」と断じ、1951年にも「すべてのアボリジニたちがオーストラリア白人と同様の生活をするようになるまで、ひたすら同化を目指すべきだ」との立場を繰り返した。警察官や「保護官」はアボリジニ集落に襲撃をかけ、色白の肌の混血児をすべて連れ去ってよいという許可を与えられた。これに震え上がったアボリジニの母親たちは、子供たちの顔に木炭を塗ったり、藪(2)の中に隠したりした。

 州ごとに「保護長官」が任命され、アボリジニ混血児が18歳になるまでの正式な保護者とされた。彼らの報告書を読むとよくわかる。「アボリジニの母親から混血の子供を離すことに、一瞬たりとも躊躇などしない。最初の悲しみを通り過ぎると彼女たちはすぐに子供のことなんか忘れるものだ(3)」(ジェームズ・アイデル調査官、1905年)、「我々は、不道徳や伝染病がはびこるアボリジニ野営地の有害な影響から子供たちを守っているのだ(4)」(クック保護長官、1911年)等々。

 ダーウィンの町に、行列が並ぶ。一人ずつ前に進み、誘拐された子供たちの名前すべてが書き留められた記録に、厳粛に署名する。アボリジニの老婆が嗚咽する。盗まれた世代の死者のために1分間の黙祷を、とマイクから声が流れる。人々は待つ。誰もの視線が議事堂の豪華な扉に注がれる。しかし、議員も大臣も、白人は誰も出てこない。彼らはこの場を立ち去ったのだ。悲しみが怒りに変わる。「お腹が痛む」と、燃えつくような視線でたまりかねたようにマージョリーが叫ぶ。彼女はアフガニスタン人とアボリジニの混血の美しい女性で、家族のもとから、フィリップ・クリーク集落から(藪の中から)連れ去られた過去をもつ。彼女の他にも1歳から5歳の子供たちが15人ほどいた。彼女は3歳だった。1952年のことだ。この頃、オーストラリアは若い民主国家としての誇りにあふれていた。

 「一体いつになったら白人たちは、私たちが彼らと変わらない人間なのだということに気がつくのでしょう。いつになったら、子供を奪うという行為ほど、母親にとってつらいことはないとわかるようになるのでしょう」。マージョリーは孤児院時代の仲間と再会した。少女時代までを一緒に暮らしたディクソン・ホームからすぐ近くで、盛大なピクニックを催した。「彼女たちが私の唯一の家族でした。人々は、母親が私たちを捨てたのだとか、貧乏で無学な両親は私たちを育てられなかったのだとか、私たちに言い聞かせました。私たちには、自分がアボリジニだという意識もありませんでした。白人ではなく、有色人種なのだということさえ理解していなかったのでした。それを私たちに教えたのは近所の人たちだったのです。寄宿舎で、私たちの思い出は何もかもかき消されました。子供時代を思い出そうとすると、大きな穴がぽっかり現れ、自分がからっぽになったような気がしました」

 盗まれた世代の悲劇が日の目を見るようになったのは、1990年代の前半になってからのことだ。キーティング労働党内閣が大々的に始めた調査は、はっきりと“Bringing Them Home”と銘打たれた。まず1994年に、家族から引き剥がされた600人のアボリジニがダーウィンに集められ、“Going Home Conference”が開かれた。そして、1997年4月、報告書が発表された。1885年から1967年にかけてアボリジニの子供の30%から50%、すなわち7万人から10万人もの子供たちが、生みの母親から引き剥がされて施設に入れられたことを認めるという内容だった。

 報告書に集められた証言は凄惨で、全国に衝撃を与えた。盗まれた世代のアボリジニの団体で、仲間の家系図を再構成し、家族や出身部落を探し出す手助けをしている「リンク・アップ」は、次のように総括する。「私たちは、今ようやく故郷へ帰ることができる。しかし、私たちの子供時代をもう一度生きることは絶対にできない。私たちの父や母、兄弟姉妹、叔母や叔父、私たちの部族をみつけることはできる。しかし、彼らからの愛や心遣いを受けないで過ごした20年、30年、40年という時間を取り返すことはできない。また彼らにしても、私たちから切り離された恐怖と絶望をぬぐい去ることはできない。私たちは、アボリジニとしてのアイデンティティを再発見できるかもしれない。しかし、民族としての私たちを廃絶することを使命とした人々によって私たちの身体、心や魂に刻み込まれた傷は消えないのだ」

最も原始的な人種差別

 このような糾弾口調をとりつつも、アボリジニが主に求めているのは公式な謝罪ということであり、アボリジニ民族の歴史を復権させ、彼らのアイデンティティを認め、彼らの尊厳を回復させることだ。しかし、この国ではあまりにも先進的すぎた(共和制への移行を主張し、ヨーロッパよりアジア諸国との関係を重視した)ポール・キーティングは1996年、首相の座をジョン・ハワードに譲ることになる。ハワード内閣は非常に保守的で、その基盤を地方の多種多様な伝統主義者、現状に何ひとつ不満のない中産階級に置いていた。

 もはや国としての謝罪も、損害賠償のための特別裁判所の設置も、論外となった。すでに認められた賠償金にしても、その三分の二は、いつ決着がつくのかわからない空しい裁判を繰り広げる白人の役人や弁護士へと流れていった。2000年8月11日、連邦裁判所は、盗まれた世代の2人の原告の請求を退けた。裁判官は、60人にのぼる証言や、3000件の証拠書類、そして2人の犠牲者の心の大きな傷を意味あるものと認めず、以下の結論を述べた。「2人の略取は当時の法律に反したものではなかった」

 国連人権委員会からの度重なる批判にもかかわらず、2000年4月、ハワード内閣は(アボリジニ問題担当大臣の口を通じて)次のように言ってのけた。「親から無理矢理に連れ去られたアボリジニの子供たちは10%にも満たないし、その中の一部にはもっともな理由があった。これは世代などと呼ぶほどのものではない。しかし、数十家族については、それぞれの事情に応じて検討されることになるだろう」。こうなると、あまりにも甚だしい否認であり、“Sorry Day”の翌日5月27日、壮大なデモ行進がシドニーの橋の上で繰り広げられた。2時間にわたり20万人の黒人、白人が手に手を取りあって伝説のハーバー・ブリッジにあふれた。唖然とする事件だった。誰もこのような大結集を予想だにしなかった。

 しかし、アボリジニのリーダーや選手がシドニー・オリンピックの機会を利用して彼らの権利を世界中に訴えると決然と宣言しても、政府は頑として動かなかった。実際のところ、真の議論や本来の問題は別のところにある。それは、オーストラリア大陸の歴史の根源、そしてオーストラリア精神の影の部分に横たわっているのだ。

 「アボリジニは多くのオーストラリア人の目に、必ずしも人間として映っているわけではありません。野生動物に近い下等人種として映っているのです。私たちは、地球上でもっとも根深く、最も原始的な人種差別と戦っているのです! この大陸へ乗り込んできた白人たちは、私たちをその辺のウサギのように撃ち殺し、私たちの文化、言語、民族を根絶しようとしてきました。彼らの憎しみは非常に大きく、私たちは今では30万人にも満たないのに、まるで何百万人もいるかのような『恒例の主題』、足に刺さったとげと見られているのです」。このように熱烈に語るマーシア・ラングトン女史は、ダーウィン大学の人類学教授であり、長い間国連でアボリジニの広報役を務めてきた。「私たちの問題をアイルランドの和解や南アフリカの交渉と同じように語ることはできません。1900万人を数えるオーストラリア人の中で、私たちの歴史にかかわりがあり、倫理的な問題があると感じているのは、たかだか100万人にすぎないのです」

 つい最近までの植民地政策の歴史が、この国の二つのコミュニティの関係に今もなお重くのしかかっている。それは数々の虐殺、次いで公には同化を目的とした(実際には緩慢な民族虐殺でしかなかった)居留地への場当たり的な統合の歴史である。しかし、1972年のホイットラム労働党内閣の登場により、希望の光がさした。同内閣は発足時、部族の土地の回復を求めるアボリジニの要求に応えるという意味で、一握りの赤土をアボリジニのリーダーの一人に返還するという象徴的な儀式を行った。「我々すべてのオーストラリア人は、この国でアボリジニに正しい地位を拒絶するならば、恥知らずということになる」と首相は簡潔明瞭に述べ、土地の返還を公約した。この動きはもはや後戻りできないところにきており、アボリジニの土地の三分の二まで北部準州の土地を返還することが約束された。土地問題協議会が各地で開かれ、アボリジニの要求を聞き、石炭会社との採掘権や対価の交渉に携わった。

異なる法、異なる価値観

 1980年代の歴代内閣は、特長ある価値と文化をもつアボリジニを民族として認め、「民族的アイデンティティや伝統的な生活様式を確保すること、あるいは部分的にヨーロッパ式の生活様式を取り入れること」を基本的な権利として認めた。しかし、オーストラリアが国として、本当にこの問題にメスを入れたのは、1992年6月の「マボ判決」においてだった。最高裁判所は、トレス海峡の島に住むエディ・マボ氏に対し、先祖伝来の土地の返還を認めるという注目の判決を下し、まさに歴史を書き換えることになった。

 初めて、部族の土地所有権(Native Tilte)が認められたのだ。この裁判に勝つために、マボ氏はこの土地に彼の先祖が代々住んでいたという証拠を提示しなければならなかった。

 この判決は連邦法によって追認され、オーストラリア全土に拡張され(適用対象はアボリジニの10%にすぎないものの、面積では数千キロ平米に及ぶ)、過去2世紀にわたって英国法のもとで重ねられた判例とオーストラリア人の無意識に刷り込まれた信念をはっきりと無効にした。1992年まで、オーストラリアの公式な説は「無主地」、つまり無人の土地というものだった。平たく言えば、アボリジニは人間ではなく、新たにやってきた入植者たちは、まるで処女大陸に最初に足を踏み入れたかのように、土地を自分のものにしたのである。

 しかし、この20年間の前進にもかかわらず、数字に示される現実は衝撃的だ。白人に比べてアボリジニの平均寿命は20歳も下回り、子供の死亡率は4倍、失業率は3倍、平均収入は白人の半分、禁錮者と自殺者の割合は5倍、等々。それだけでなく、アボリジニ全体に広がったアルコール中毒による緩慢な自殺、若者の間に蔓延したペトロル・スニッフィング(ガソリン蒸気の吸引)といったものもある。数々の施策ができても、白人社会へ同化することは依然として不可能であるかのようだ。

 「二つの文化、二つの文明はあまりにも違いすぎるのです。価値観が正反対だと言えるほどです。その上、出会ってから、たった2世紀しかたっていません。例えばピントゥビのように、アーネム・ランドや中部砂漠地帯に住む部族には、ほんの50年前に初めて白人を見たという人々もいます。彼らは一瞬のうちに、狩猟採集を営む先史時代の生活から、トヨタ車やスーパーマーケットが居並ぶ20世紀の生活に移行したのです。この激変は、核爆発のようなものです」と語るのは、ギリシャ系オーストラリア人のクーラ・ルソス女史で、盗まれた世代のアボリジニを専門とする弁護士だ。「アボリジニの集落を訪れ、彼らのために建てられた家を横目に、彼らが野外で暮らしているのを見る度に、庭付き一軒家を持つというオーストラリア白人の生涯の夢と引き比べ、この二つの溝はどうしようもないと感じるのです。私自身、弁護士として彼らに私たちの法律が何なのかを理解してもらうのに、とにかく頭を痛めています。というのも、たとえ大抵のアボリジニが『ドリーム・タイム』という部族の法(5)に従った生活をしなくなったとしても、彼らには今もその価値観、我々とは違う正義が染みついているからです」

 ありとあらゆる交渉レベルに、まるで聞く耳を持たぬ者同士の対話が際限なく繰り広げられているといったおもむきが感じられる。一方には、進歩と管理、そして制覇へと向かう競争と物質主義の白人の世界がある。他方には、精神をより重んじる黒人の世界がある。そこでは、人間はすべての生き物と結びついていて、その人生は大地を讃え、人間を造った『ドリーム・タイム』の英雄たちを讃えるためにあり、生命の再生と永続を可能にするための儀式が大切にされる。

 「私たちのアイデンティティはどこにあるのか」と、西オーストラリア州ブルーム市に住む映画監督・音楽家のウェイン・バーカーは問いかける。「アボリジニはみな、4万年にわたる文明の遺産を受け継ぐとともに、それを自分に合わせて変えていくことができる。以前は、私たちの文化は口承によって子孫代々へ伝えられてきた。今は、ラジオ、テレビ、映画がある。通過儀礼さえも都市生活に応じたものになり、何カ月もかけることなく、現代の仕事のリズムに合わせるようになった。しかし、白人の法に従い、彼らの基準で自分をわかってもらうというやり方では、うまくいくはずがない。私たちの創世神話、精神の物語と儀式、土地への聖なる一体感、そして私たちの『アボリジニ性』を、どうやって血液検査やサイン、所有権法や有刺鉄線つきの杭などといったもの、つまり物事を区分けしたり分離するようなもので、評価できるというのか」

(1) ロマ族の子供たちの略取については、ローランス・ジュルダン「スイスが行ったジプシー狩り」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)参照
(2) オーストラリアの低木地帯。広義では都市化されていない地帯すべてを指す。オーストラリア全土の90%を占める。
(3) オーストラリア政府の報告書“Bringing Them Home”からの抜粋(キャンベラ、1997年)
(4) 同上
(5) アボリジニにとって、大地には、すべての生物を創造した「ドリーム・タイム」の英雄たちの足跡が刻まれている。これらの英雄たちは、今でも宇宙の力(自然の豊かさ、女性の多産、雨、風)に働きかけ、人間を眠りの中で導くという。


(2000年10月号)

* * 第一段落「力づくの同化」を「力ずくの同化」に訂正(2005年10月7日)

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