イラン石油国有化後のCIAの策謀

マーク・ガシオロフスキー(Mark Gasiorowski)
ルイジアナ州立大学政治学教授、バトン・ルージュ

訳・柏原竜一

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 マドレーン・オルブライト米国務長官は2000年3月19日、イランのモサデグ政権を転覆した1953年のクーデタへの「関与」を初めて公式に認めた。しかし、この介入時の状況はまだあまり知られていない。4月にニューヨーク・タイムズ紙によって暴露されたCIA(中央情報局)のレポートは、中近東の力関係を覆すことになったこの事件で英米両国の諜報機関が演じた役割を明らかにしている。[訳出]

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 数カ月前、ニューヨーク・タイムズ紙は、CIAによって引き起こされたイランのモハンマド・モサデグ首相に対するクーデタについての公式レポートを手に入れた。2000年6月16日、同紙はこの文書をインターネット上に公表した(1)。事件に関与した複数のイラン人名は塗りつぶされていたが、名前の大部分は他のサイトで特定することができた(2)。この実に興味深い文書は、どのように作戦が遂行されたのかを明確に物語っており、イランの内政や米国の外交政策に関心のある者にとって必読の文献である。

 クーデタはイラン史上激動の時期、それも冷戦期の真っ只中に生じた。モサデグは当時、国民戦線の党首であった。国民戦線は1949年に創設された政治団体であり、英国の支配下にあった石油産業の国有化と、政治体制の民主化を主張していた。この二つの問題提起は国民を熱狂させ、国民戦線はイランの政局において急速に主要勢力へと成長した。モハンマド・レザ・パーレヴィ国王は51年、石油産業の国有化とモサデグの首相任命を余儀なくされた。このことは英国政府との激しい摩擦を生み出す。英国はイラン原油の輸入を全面的に禁止すると同時に、モサデグ政権を転覆する長期的な策略を練り始めた。

 米国は当初、静観を決め込んだ。そして英国政府に国有化を受け入れるよう働きかけ、両者の和解を仲介しようと試みた。51年9月には、英国がイランに介入しないよう説得したほどである。このような中立的態度は、53年1月のトルーマン政権末期まで続いた。多くの米国の指導者がすでに、モサデグの国有化への固執は政情不安を生み出し、イランを「鉄のカーテンの向こう側に追いやるという危険」(レポートIIIページ)にさらしていたという認識をもっていたにもかかわらずである。52年11月、アイゼンハワーが大統領選に勝利した直後、英国政府上層部は米国の責任者に、モサデグに対するクーデタを共同で実行することを提案した。米国側は、現行政権の下では作戦は実行し得ないだろうが、翌年1月から任期が始まるアイゼンハワー大統領なら、冷戦を強力に遂行する決意も固いため、恐らく実行可能だろうと返答した。

 CIAのレポートを読めば、どのように作戦が準備されたのかがよくわかる。53年3月にアイゼンハワー大統領の許可を受けて、CIAの高官はどうすればクーデタを起こせるのか研究を重ね、モサデグに代わる首相について検討を進めた。その結果、ファズロラ・ザヘディに白羽の矢が立った。彼は退役将軍で、過去にも英国政府とモサデグ転覆のための謀議を練ったことがある。5月にはCIAの工作員と英国SIS(秘密諜報機関)のイラン担当の専門家がキプロス島ニコシアで2週間にわたり協議をはかり、計画の第一次草案を練った。2人の上司がさらに検討を加え、最終案が6月中旬にロンドンで起草された。

 この計画は、大きく分けて六つの段階から成っていた。まずCIAのイラン支部とラシディアン兄弟によって率いられるイラン最大の英国諜報機関の情報網が、プロパガンダその他の地下政治活動によってモサデグ政権に揺さぶりをかける。次にザヘディが、クーデタを遂行できるような将校組織を作り上げる。第三段階では、CIAが十分な数の議員を「買収」し、議会をモサデグに対立させる。これに続き、国王からクーデタおよびザヘディへの支持を取り付けるよう努めなければならない。もっとも、王の同意がなくとも、作戦は遂行されることになっていた。

 その後、CIAは「準合法的な」(A3ページ)方法で政治的危機を引き起こし、議会による首相解任を通じたモサデグ政権の転覆を試みる。宗教指導者が組織的な抗議運動を起こすことにより、国王に国を離れるよう説得するか、モサデグを辞任に追い込むような状況を作り出すという目算である。最後に、これが失敗に終わった場合は、ザヘディの組織した将校団がCIAの助力により政権を奪取することになっていた。

罷免工作の失敗

 実際には、この「ロンドン計画」がまとめられた時点で、最初の三段階はすでに着手されていた。CIAのテヘラン支局は4月4日、「いかなる手段を行使してもモサデグ政権を転覆する」(3ページ)ための資金として100万ドルを受け取り、5月には、ラシディアン兄弟とともに反モサデグのキャンペーンを開始した。その他にもモサデグに揺さぶりをかけるための秘密工作が行われたものと思われる。CIAの工作活動はクーデタ直前の数週間にひときわ激化した(92ページ)。

 CIAはザヘディと4月に連絡をとり、「新たな味方を獲得し、(イラン政界の)キーパーソンに影響力を行使する」(B15ページ)ために6万ドル(あるいはそれ以上)の資金を渡した。公式の報告書によればイラン高官の買収は否定されているが(E22ページ)、ザヘディがこの金を他の用途に用いたとは考えにくい。とはいえ、ザヘディには「決断力、覇気、それに具体的戦略が欠けている」こと、クーデタの遂行に足る軍人ネットワークを組織できそうにないことを、CIAは急速に理解しつつあった。そのため、この任務はCIAのために働いていたあるイラン人大佐に委ねられた。

 53年5月下旬、CIA支局は議員の協力を取り付けるために、一週間あたり約1万1000ドル支出することを許可された。その結果、反モサデグ派は大いに勢いづくことになった。モサデグはこれに対し、定数不足による議会解散で応じようと、自派の議員に辞職を働きかけた。CIAは解散を妨げるべく、議員の何人かに辞職を思いとどまるよう説得にまわった。8月はじめ、モサデグは国民投票を実施して不正工作を行い、イラン国民の大部分が議会解散と総選挙実施を支持するという結果を得た。これ以降、CIAは「準合法的」活動に従事することができなくなったが、国民投票でモサデグが不正を働いたとのプロパガンダは続行した。

 7月25日、CIAは国王に対し、クーデタを支持し、ザヘディの首相任命を承諾するように「圧力」をかけ「操作」するという長期工作に着手した。それから3週間の間、4人の密使がほぼ連日にわたって国王のもとに通い詰め、協力を要請した。8月12日、もしくは13日に、国王はためらいながらも説得を受け入れ、モサデグを罷免しザヘディを任命する勅令(ファルマン)に署名した。国王を説得したのはソラヤ王妃であったらしい(38ページ)。

 8月13日、この勅令をザヘディとモサデグに届ける任務を、CIAはネマトラ・ナシリ大佐に託した。しかし国王との交渉が長期にわたったために機密は破れ、関与した政府高官の一人が陰謀を暴露することとなった。ナシリが最初の勅令を届けようとした8月15日から16日にかけての夜、モサデグはナシリの逮捕を命じた。その直後に他の複数の共謀者も身柄を拘束された。このような事態を想定して、CIAはテヘランの要所を占拠すべくザヘディ派の部隊を準備していたが、ナシリが逮捕されると将校たちは姿を消した。こうして最初の試みは失敗したのだった。

 ザヘディは他の共謀者とともにCIAの隠れ家に避難した。国王は逃亡し、最初にバクダッド、次にローマに逃れた。CIAのカーミット・ルーズヴェルト地域統括局長は、クーデタの失敗をワシントンに伝えた。彼は直ちに、作戦を放棄し、本国へ帰還するようにとの命令を受け取ることになる。

テヘランに溢れたデモの波

 しかし、カーミット・ルーズヴェルトとそのチームは急遽、もうひとつの工作に着手することを決めた。彼らは国王の勅令のコピーを作ってマスコミに配り始めた。目的は、反モサデグ世論の喚起である。それから数日間、CIAの主工作員2人は、この目的に沿った一連の「非合法」工作を行った。イスラム教徒を反モサデグで糾合するために、有力な共産主義政党トゥーデ(人民党、親モサデグ派)の党員になりすまして宗教指導者たちに脅迫電話をかけ、ある聖職者の家を標的に「テロ事件を装った」(37ページ)のである。18日には、トゥーデの党員を装ったデモ隊を組織することにも成功した。2人の工作員の扇動によって、デモ隊は(国王派の)政党の事務所を略奪し、国王とその父親の立像をひっくり返し、テヘランを混乱に陥れた。何が起こっているのかを理解したトゥーデは、自宅に待機するよう党員に勧告した(59、63、64ページ)。こうして、翌日街路に溢れることになる反モサデグ派のデモ隊を前に、トゥーデは身動きできない状況に置かれた。

 8月19日の朝、テヘランのバザールの近辺に反モサデグ派のデモ隊が集まり始めた。CIAの報告書は、これらのデモが「半ば自然発生的に」起こったと記述しているが、「(CIAによる)政治工作が適当な状況を作り出したことも(デモの)発生に寄与した」(XIIページ)と付け加えている。国王の勅令の暴露と、「装われた」トゥーデのデモ、その他の「非合法」工作が、多くのイラン人をデモ参加へと促したことは確かであった。

 複数のイラン人CIAメンバーがデモ隊を先導し、テヘランの中心部に向かった。そして彼らを支援するよう軍隊を説得した。市内では、デモ隊に煽られた群集が親モサデグのイラン党本部を襲撃し、映画館一軒と新聞社数カ所を焼き払った(65、67、70ページ)。同時に、軍の反モサデグ派の部隊がラジオ局や他の重要拠点を占拠し、テヘランを掌握しつつあった。激しい戦闘が続いたが、モサデグ派の部隊は最終的に敗北した。モサデグ自身もいったんは身を隠したものの、翌日には降伏した。

 CIAの報告書を読んでも、二つの根本的な疑問が残る。第一に、最初のクーデタを失敗させた裏切り者は誰かということだ。報告書には、「関与したイラン軍高官の1人がうっかり口を滑らせた」(39ページ)とあるにすぎない。第二に、CIAの政治工作がどのようにして8月19日のデモ隊の組織を促したのか、またデモの発生にあたってCIAの活動がどれほど重要な役割を果たしたのか、この文書には説明が欠けている。事件の中枢にいた関係者の聞き取り調査により作成された他の報告書によれば、CIAは宗教指導者たちに資金を供与していたが、受け取った側では出所を知らなかったらしいことが示唆されている。CIAのレポートにはこの点の説明がない。事件に関与した人物のほとんどが今日では死没しており、CIAもこの作戦に関する文書の大部分を廃棄したと述べている以上、これらの疑問が解決されることは恐らくないだろう。

 また、この公式レポートをリークしたのは誰なのか、その目的が何であるのかを知ることも困難である。2000年4月16日付のニューヨーク・タイムズ紙の記事は、「レポート一部を保存していた元高官」によって提供されたとだけ説明している。オルブライト国務長官がイランとの和解を企図した重要演説を行い、米国政府がクーデタに関与したことを初めて認め謝罪したのは、ちょうどその1カ月前のことであった(3)。ニューヨーク・タイムズ紙へのリークは、国務長官の方針を強く支持する政府、あるいは個人が意図的に行ったと考える者も多い。それが真相だとすればレポートの全容が明らかにされたとは考えにくいものの、その可能性はあながち排除できないのである。

(1) http://www.nytimes.com/library/world/mideast/iran-cia-intro.pdf. 文書の日付は1954年でドナルド・N・ウィルバーの署名がある。
(2) http://cryptome.org/cia-iran.htm. ニューヨーク・タイムズ紙が用いた方法は役に立たなかった。黒塗りされる前に名前を読み取るには、遅いコンピュータを使うだけでよかったからである。
(3) ル・モンド2000年3月20日付


(2000年10月号)

* 本文中、註番号(3)のリンクずれを訂正(2002年7月26日)

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