科学と技術をめぐる政策、そして

ジャック・テスタール(Jacques Testart)
国立保健医療研究所(INSERM)研究部長、
持続可能な発展のためのフランス委員会・委員長

主著『遺伝子の欲望』(フラマリオン社、パリ、1994年)、
『ありうる人間−偶然の子づくりから規格の子づくりへ』(スーユ社、パリ、1999年)、
『蛙と人間』(スーユ社、パリ、2000年)

訳・安東里佳子

line
 イギリス政府が治療を目的とするヒト細胞のクローン培養を認めたのに続き、アメリカは胚細胞の研究を支援する方針を打ち出した。これらの決定は、とりわけフランスで反論を呼んだ。他方、牛海綿状脳症(狂牛病)がどのような場合に人間に感染するかについて、専門家も確証のなさを認める。遺伝子組み換え作物の危険性についても、専門家の意見は分かれている。とはいえ、1995年のバルニエ法(環境保護の強化に関する1995年2月2日の法律)に取り入れられた慎重の原則(予防原則)では、専門家の意見が大いに頼りにされている。だが、慎重な取り組みをうたうのならば、その逆に他の分野の研究者も含めた多くの意見を参考にし、とりわけ世論のさまざまな声をすくいとるべきではないだろうか。[訳出]

line

 「慎重の原則」――。いささか濫用されるきらいもあるものの、科学、技術、倫理をめぐる今日の議論のポイントになっている言葉だ。この原則は1995年のバルニエ法に盛り込まれ、次のような規定となった。「取り返しのつかない重大な事態を未然に防ぐために、有効かつ均衡のとれた対策をとることが、確証に欠けるからといって遅れるようなことがあってはならない」。しかし、最近の運用や規制を見るに、こうした考え方は縮小解釈される傾向にある。つまり、新しい技術の潜在的なリスクについては、科学の専門家が主に人間の生命や環境への影響という観点から検討し、これを根拠に政策が決定されているのが実状だ。科学と法律をつなぐものはほとんど何もないと言ってよい。そこで取り上げられた技術革新の恩恵を受けるとされる一般市民は、まるでカヤの外におかれている。一連の意思決定の流れで、欠けているのはこの点だ。

 政治家が有権者の代表として公共の利益を前提に行動するものと考えられている以上、他の分野とて似たりよったりという反論もあるかもしれない。しかし、「ハイリスク」技術がもたらすかもしれない影響を検討するのは、橋の建設や病院の整備、果物や野菜の輸出とはわけが違う。このような「古典的」な例の場合、不確実性はゼロということはなくても非常に限定されるため、専門家(技術者、医者、エコノミスト、等々)の判断に信頼がおかれ、合理的な決定が下される。

 反対に、環境や家畜、さらに人類へも影響を及ぼすおそれのある技術の場合、「専門家による評価は、もはや知識の有効性、つまり意思決定に対する科学的な保証を基本とするだけでなく、不確実性を組み込み、不確かな未来のシナリオを描く能力を問われる(1)」ことになる。 最近の首相への報告書にはっきりと書かれたように、「専門家も知らない」ことがあり、さらにまずいことに、彼らの見解に「まったく予断がないとは言えない」。この認識は報告書のあちこちに示されている(2)。なかでも、遺伝子組み換え作物が生物多様性を減少させる可能性があるという主張への反論として、そのような見地には「ある種のイデオロギー色」があると言い、「エイズの流行は生物多様性の表れ」だと強調する。

 慎重の原則にしたがえば、必ずや不確実性が拭いきれないことを表明することになる。なぜなら、誰一人として、とりわけ合理的精神の持ち主なら、未来を予言することなどできないし、現時点でさえ前代未聞の事態が進みつつあるのだから。そこで、欧州委員会は「科学的根拠が不十分であるか、なんらかの不確実性が残る場合、リスク分析は慎重の原則にしたがって行う」という立場をとる(3)。ところが、専門家が確証をもてないような事態はますます頻繁になっていて、イギリス産の牛肉を食べても大丈夫かどうかもわからなければ(4)、遺伝子操作された植物に対する不安感に応えることもできないでいる(5)。このように、最も優秀な専門家による評価ですら、一般的に科学的態度として期待される条件を満たしておらず、「科学的評価」というより「科学者たちの評価」と言った方がいいぐらいだ。

 たとえ専門家がテクノサイエンスのイデオロギーやビジネス界の圧力に影響されず、非の打ちどころがなかったとしても、彼らにできるのは知らない範囲に線を引くことだけでしかない。これには主に、二つの理由がある。第一に、ますます「細かく」なる問題を分析するのに必要とされる知識が十分にない。たとえば、狂牛病の震源地となったイギリスへの滞在経験者から、献血を受け入れるリスクを決定するといった問題があげられる。第二に、さまざまな分野の専門家による評価から出てくる情報の断片を総合し、それらの重要性を適切かつ明確な方法で計量し、複雑な事象の客観的な全体像を組み上げる力がない。たとえば、気候変動の原因を推定し、今後の変動を予測するといったことだ。

 少なくとも潰しきれずに常に残ってしまうものという意味で、不確実性があると専門家自身が認めている以上、その科学的評価を議論の余地のない知的権威とし、それで政策を決定してしまえると考えるのは、どうもおかしいという気がする。しかし、これがまさしく、欧州委員会が最近の通達で示したことなのだ(6)。一般社会で交わされている議論は、まるっきり無視されている。科学者と技術者、あるいはエコノミストだけに専門家の資格を与え、同じように知識の探求に努める他の分野の知恵を軽視すれば、解明すべき事象の複雑さは忘れられ、単細胞的な理屈が一人歩きを始める。

 他の分野の知恵とは、社会学や生態学などの専門知識に限らず、直感、良識、美意識、感受性、作法、工夫のように人間の誰もがもつ知恵のことだ。政治家が感性や情緒、人間の幸福、自然との関係、喜びや苦しみといった分野(彼らが選ばれた理由とは関係のない資質)においても優れていると認めるのでもないかぎり、一方にはテクニカルな評価があり、他方には技術を普及させるという政治的決定があるだけで、幅広く検討されるべき中間の領域はごっそり抜け落ちてしまう。

 テクノサイエンスの機構と政策決定の機構のあいだにあるはずの「人間性」がかき消された現状に、科学的言説が他を圧倒し、科学それ自身の地位すら危うくしかねないような事態をみてとることができる。「遺伝子組み換え作物に特段のリスクは認められないが、消費者には選択の自由がなけれなばらない」と題したクリルスキー=ヴィネー報告の一節を読むと唖然とする。別の箇所でほのめかした疑念をすっかり吹き飛ばし、遺伝子組み換え作物に危険なしの太鼓判を押す。そして、それに抵抗するのは非合理的な態度だと言わんばかりに、消費者が(ラベル表示などによって手にする)選択の自由を、一部の市民が求めるようなコーシャー食品(ユダヤ教の規定に合致した適正食品)しか食べない選択の自由になぞらえてみせる。

 技術のリスクは数量化されなければならないと、科学者はひたすら強調する。そのリスクが空想の産物などでなく、信憑性があると認めるためには、数量化が必要条件になるという。同様に、欧州委員会も「詳細な科学的データや他の客観的な情報を根拠とする筋道だった決定プロセス」を要求する。このように科学性や客観性が言い立てられる背景には、どこかの誰かは知っているという前提があり、「数量化」できないものは議論に値しないという考え方がある。欧州委員会は他方では、「入手可能な科学的情報の評価結果にかかわる不確実性の度合いを自覚しなければならない」と各国の政策決定者に注意を促す。いわば、どこかに理想的な状態(科学は原則的に知っているはず)を想定していて、今の不備(不確実性の度合い)は一時的なものにすぎないと言っているような感じだ。そこでは、科学の領域に入らないと断じられた議論は、たとえ科学的評価より不確かというわけでなくても、門前払いされている。

 ハンス・ヨナスの言う「責任の原理」の名の下に(7)、過去20年にわたって訴えられてきた道義上の原則が、慎重原則の法制化のかげで立ち消えになってしまった。原子力や遺伝子の技術を危惧するヨナスは、倫理的な解決のひとつとして、プロジェクトの完全放棄もありだと言った。これに対し、現にみられる慎重な姿勢というのは、プロジェクトを先延ばしにしたり、利用条件に手を加えるといったことでしかない。

 仮に、ある技術革新が慎重原則に照らして潜在的リスクが皆無とされたとしても、それだけで、全面的に責任をもって技術利用を正しいと言うことはできない。とりわけ、持続可能な発展という観点からすれば、ほかにもさまざまな配慮が求められる。経済開発、自然、社会的平等、雇用、地域の連帯、途上国と先進国の関係などに、どのような影響があるのかが問題とされる。だが、そんなふうに際限なく道義上の原則を振りまわされても、長々とかかわりあっていられたものだろうか? われわれはグローバリゼーションの中で、これまで以上に競争力、自由貿易、投資、生産性第一主義、技術の進歩といった新しい「価値観」を信奉するしかないのではないだろうか?

後戻りのない進歩

 知的な反論を受けつけない「石頭」な世界では、「ゼロ・リスクなどありえない」という、情けなくなるほど月並みな呪文が繰り返される。とりあえずそう言っておけば、慎重さに欠けるせいで何か起きたとしても受け入れやすいというわけだ。しかし、誰もオムレツを食べたいと言わないのに、卵を割っておく必要があるのだろうか。専門家による評価の言説がリスクの証明(というよりもリスクがないことの証明)に躍起になっている背後には、そもそもの対象に一般市民が要求や関心を向けていないという事実がひそんでいる。企業が(誰に頼まれたわけでもなく)遺伝子組み換え作物を押しつけようとしているのもそういうことであって、ほとんどの専門家はこれを積極的に支援し、多くの政治家も共謀している。政治家たちに有権者を裏切っているという意識がないとすれば、それは、時流から外れた抵抗の動きを共通の利益のために打破すべきだと信じているからだ。彼らの行動は、理性というより信念からきていることを押さえておかなければならない。

 いかにも、まじめな人々が、遺伝子組み換え作物の栽培の利点がなにか証明済みであるかのように振る舞っているのは、確実で後戻りのない進歩というイデオロギーの影響だと言えるのではないか。企業が(網羅的ではない実証をもとに)喧伝する漠然とした(わずかな)生産性の向上だけで、「遺伝子組み換え作物はうまくいく」などと結論してよいのだろうか。遺伝子組み換え作物を使えば収穫高が上がるというのが、単なる約束ということでなく、近い将来に反論の余地のない結果として証明されたとしても、その情報は現時点での専門家の評価手続きには欠けている。この事実は、非科学性が「反進歩派」の専売特許ではないことを証拠だてている。その見立てが正しいことは、専門家の大ざっぱな評価結果を政治家が丸のみしていることからもわかる。技術の圧倒的な力を誰もが信じ込むあまり、その利点に対する一切の疑問が許されず、その無害性を検証する努力だけが認められるといった感じだ。

 もっともらしい議論によって、専門家の評価がリスクのテクニカルで測定可能な側面だけに偏った現状が正当化されようとしている。そこでは、たとえば遺伝子組み換え作物の場合なら、生活の質、農業の工業化、生産性第一主義による集約といった、技術の社会・文化的な影響が無視されている。この種の問題は、もともと遺伝子組み換え技術が出てくる前からあったという論法で、しばしば先送りにされている。品種の選別や市場原理が働くのは、なにも遺伝子組み換えのせいではないということだ。この論法には、現場での実施が加速化し、画一化することで、社会・文化の変質が起こる可能性があるという視点がない。遺伝子組み換えによる急変の結果、自然の進化や伝統的な品種改良という緩やかなメカニズムとはまるで違った影響が出てくるかもしれないではないか。

 人間が後戻りのきかない結果へと先走れば、発見や制御といった領域を離れ、破滅的な状況の中で身動きがとれなくなるだろう。だからこそ、新しい技術の導入にあたっては総合的な検証を行い、伝統的な活動の範囲に入らないような要素を調べつくす必要がある。これをしなければ、かれこれ1世紀以上にわたって育種農家がやってきた仕事の効率が上がるからというだけで、ターミネーター方式(8)を受け入れなければならないという理屈も成り立ってしまう。とはいえ、自由主義の論理を貫けば、クリルスキー=ヴィネー報告が指摘するように、ターミネーター系の種子を買う義務はどこにもないのだが。

 人間と人間を取り巻く環境に対する遺伝子組み換え技術の衝撃を小さく見せようとして、遺伝子組み換えという現象はもともと自然界にもあるという点が強調されている。たとえば、土中のバクテリアは、抗生物質に耐性のある遺伝子を以前から交換しているし、現在の小麦にはライ麦のゲノムの断片が入っている。また、ミトコンドリアや葉緑体は、動物や植物の細胞に吸収されたバクテリアの名残りだし、動植物は昔からウイルスの遺伝子配列を取り込んでいる。

 これらはすべて、たしかに正しい。しかし、遺伝子組み換え作物を今すぐ大量に、取り返しのつかないほどばらまいてもいいとの現実的な論拠にはならない。こうした議論には、企業が「第二世代」遺伝子組み換え作物を手がける現状に向けられた一般大衆の疑惑の目をそらそうとする目的もある。第二世代で利用される優良な性質は、突然変異の誘発や、異種の遺伝子ではなく改良種に含まれる有用遺伝子の導入によって得られるという。つまり、伝統的な品種改良の図式に近いとされる。そうはいっても、この技術革新によって加速される生物進化のスピード、そして技術と産業の強力な結託を考えれば、第二世代もやはり新たな現象というべきであり、人間と身の回りの自然、そして人間同士の関係に、取り返しのつかないような影響を与えることになるだろう。

 科学に不確実性があり、専門家の評価も主観的で、そのうえ方向性まで行き詰まっているとすれば、どうやって合理的な政策決定にいたることができるのだろうか。ミッシェル・カロンは「技術デモクラシー」を分析した論文(9)の中で、一般大衆を「啓蒙の推進と蒙昧主義への対抗のための戦い」に導くという科学者の教育的役割を指摘する。この役割は、科学者のあいだでは救世主としての役割のように思われがちだ。国立農業研究所の最近の報告書(10)に掲載された遺伝子組み換え作物についての世論調査のような例が、科学者の自負心を高めている。

 「ふつうのトマトには遺伝子はないが、遺伝子組み換えトマトには遺伝子があるというのは、正しいか誤りか」という質問に、フランスでは32%しか正解できなかった(アメリカでは42%、カナダでは52%の正答率)。そこで、このように無学な一般市民に何を訊いても無駄だ、という結論になる。一般大衆の教育はもちろん必要だが、教育されたからといって、遺伝子組み換え作物を受け入れるようになるとは限らない。倫理的な姿勢と科学的な合理性や知識を混同するというのなら話は別だが。ミッシェル・カロンが、決定に正統性を与えるには素人の知恵を動員することが重要だと強調するのも、そうした理由からだ。

市民会議という試み

 この点については、さる98年6月に「科学技術上の選択の評価のための議会内事務局」がフランスで主催した遺伝子組み換え作物についての市民会議が、興味深い実例となっている。前述の報告書を書いた社会学者たちによると、このフォーラムでは、素人の「独特の見識」が示された。彼らは「局所的な争点にとらわれない見方」ができるため、「技術の評価への参画に求められる認識能力がある」という。同じ報告書は、議員が新しい技術に対する責任に欠けることも指摘している。原子力や遺伝子組み換え作物についての「退屈きわまりない」書類の山に果敢に取り組むのは、「専門家中の専門家となった少数の議員」だけだ。議会もまた「専門家と門外漢という社会の亀裂を内部で再現」し、市民会議の正統性を「脅威」のように受け止める傾向がある。

 市民会議を熱心に企画したジャン=イヴ・ルデオー議員の気が変わったのも、こういう精神状態からなのかもしれない。彼は1年後、「直接民主制という古代ギリシャのアゴラの代用品のようなもの」をめざそうとするのは「まったくの大衆煽動にすぎない」と決めつけ、市民会議には「専門家や関連分野の団体(と活動家)の意見に付け加わる門外漢の意見」しかないと言うようになった(11)。教育を受けた一般大衆の意見が数ある所見のひとつにすぎず、専門家による所見に意味を与えるものではないと言わんばかりだ。ドニ・デュクロは、次のように書いている。「政治の本領は、われわれが演じる劇の詳細や配役、役者の給料だけでなく、劇そのものを議論するところにある(12)

 この「政治の本領」を発揮させるには、環境分野で(もちろん他の分野でも)慎重な取り組みを実行に移すにあたり、一般市民が活発に参加していく必要がある。それだけに、慎重原則に関する欧州委員会の通達が、公共の議論についてまったく触れていないのは驚きだ。クリルスキー=ヴィネー報告のまるで煮え切らない提案が、民意にもとづく慎重な取り組みの最前線とみなされているのではないかと不安になる。

 だが、目標とすべきは、専門家に都合のいい妥協とはまったく違う。何人かの素朴な人間を技術委員会に放り込んで、彼らが人質になって、科学や科学者の権威に押しつぶされるということではない。また、同報告が推奨するような「第二グループ」をつくるというのも違う。「選ばれた」市民が「第一グループ」たる科学の専門家に支援され、意見を出すのを許されるということではない。

 技術リスク予防協議会の最後の議長を務めたジャン=ジャック・サロモンは、92年にこう書いている。「近代社会で技術界のロビーが握っている権力に立ち向かい、被害を食い止めるには、情報開示、諮問答申、協議といった手続きの強化を通じて、決定機関の民主的機能を確保するほかに道はない(13)

 真に民主的な機構をつくりあげるには、われわれが全国倫理委員会に取り入れさせようとしてできなかった方法が有効と考えられる(14)。これもつまり、専門家の役割を情報提供に限定し、責任ある一般市民の知性、直感、良識に賭けるという方法だ。この方向に沿って、「持続可能な発展のためのフランス委員会」が先日提出した意見には、「技術の評価のための諮問委員会」を創設するという案が含まれている(15)。この委員会を構成する有志の委員は、「純粋」という定評のある人物、つまり企業に限らず研究機関や非政府組織(NGO)にかかわりのない人物の中から抽選で選ばれ、特定の作業の後に一般市民としての意見をとりまとめることになる。

 委員会には、意見のとりまとめにあたり、科学や社会・人文科学の専門家、企業人、エコノミスト、市民団体など、あらゆる当事者に等しく意見を求める権限が与えられる。これは、最も民主的というだけでなく、評価のプロセスとして最も「科学的」でもあるだろう。すべてを知っているわけではないとの自覚を忘れない理性の所産こそが真に科学の名に値することを認めるならば。

 もちろん、責任をもって学習と討議に臨もうとする有志の「純粋」な人々が、技術や方法論の問題に苦闘するのを放置するということではない。人事に長けた「調停役」と、(同じく評価対象の争点とはかかわりのない)事務局を付けて、専門的な部分の提案やとりまとめに当たらせなければならない。委員会内部でコンセンサスが得られない場合は、全国各地で一斉に市民会議が開かれる。こうした地方分権体制をとることで、会議の結論の客観性が高まることになる。

 とりまとめられた意見は、啓蒙された市民の見解を代表すると考えられるが、逆に意見が分かれて収拾がつかないようであれば、その問題には乗り越えがたい困難があるという意味になる。この仕組みは、欧州レベルの諮問委員会の意見が各国の市民会議の意見によって固められるというように、地域レベルにも容易に当てはめることができる。これらの機構の運営コストは特設の基金から支払われ、技術革新を推進したい企業が基金に出資するという体制を整えるべきだろう。

 いずれにせよ、決定者としての政治の役割が、ようやく正当化されることになる。政治が引き続き取り組むべき課題は、その他の要素、とりわけ(他のどんな意思決定の場合でも同様だが)地政学上の要因を加味することである。その際に、政治行為の影響が将来どこまで及んでいくかという観点を忘れずに、すでに浮かび上がってきた数々の誘惑に打ち勝たなければならない(16)

 まず、決疑論(17)の誘惑がある。この古くからの便法を喜々として持ち出す人々は、法をあざむく密談に流れ、一般的な行動の原則に背を向けて、十人十色とうそぶいてみせる。それから、モラトリアムの誘惑がある。これに染まると、時とともに倫理も水に流され、慣れが受け入れにつながるということになる。最後に、国境内部への自閉の誘惑がある。これに陥ると、人類にはいくつかの種類があって、全人類が同じ惑星に住んでいるわけではないとでもいう態度に出ることになる。その結果、ここでわれわれが決定することは、よそで起こることにはおかまいなしとなる。本当に真剣になって、真に持続可能な発展を考えていくならば、慎重な取り組みということが、世界の市民ひとりひとりの問題だという自覚をもたなければならない。

(1) ベルナール・カラオラ「総合的専門家:言葉の宗教」(フランス民族学誌XXIX、パリ、1999年4月)
(2) フィリップ・クリルスキー、ジェヌヴィエーヴ・ヴィネー「慎重の原則に関する首相への報告書」(パリ、1999年10月)
(3) 欧州委員会、消費者の健康と食品の安全性に関する1997年4月30日付の通達, COM (97)183 final, OJEC, C 97/202 of 30 April 1997.
(4) 「ラベル表示と分別流通は万能薬ではない」(リベラシオン紙、1999年11月26日付)参照
(5) 「増殖する遺伝子操作生物の危険」(ル・モンド・ディプロマティーク1997年5月号)参照
(6) 欧州委員会、慎重の原則への依拠に関する2000年2月2日付の通達, COM (00)153 final, OJEC, C 2000/58 of 2 February 2000.
(7) ハンス・ヨナス著『責任という原理−科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武監訳、東信堂、2000年)。また、ジャック・デコルノワ「目くらましと見せかけの断絶」(ル・モンド・ディプロマティーク1991年10月号)を参照
(8) この技術は、遺伝子操作を受けた種子から育った植物が新たに種子をつくることを妨げ、そうやって農家が毎年種子を買わざるをえないようにする。この「技術革新」は世間の憤激を呼び起こし、モンサント社はその商品化を(とりあえず?)あきらめた。ジャン=ピエール・ベルラン、リシャール・C・ルウォンタン「遺伝子産業の脅威」(ル・モンド・ディプロマティーク1998年12月号)、フランソワ・デュフール「畑を産学の草刈り場にするな」(同1999年7月号)、ジョゼ・ボヴェ「われら農民の闘い」(同1999年10月号)参照
(9) ミッシェル・カロン「技術デモクラシーのさまざまな形」(国立高等鉱山学院紀要第9号、パリ、1998年)
(10) ピエール=ブノワ・ジョリ、ジェラール・アスリーヌ、ドミニク・クレジアック、ジュリエット・ルマリエ、クレール・マリス、アレクシス・ロワ『議論をよぶ技術革新−フランスにおける遺伝子組み換え作物をめぐる公共の議論』(国立農業研究所、グルノーブル、2000年1月)
(11) ジャン=イヴ・ルデオー著『技術の選択、公共の議論、政策の決定−遺伝子組み換え作物を前にした世論』(アルバン・ミッシェル社 パリ、1999年)
(12) ドニ・デュクロ「普遍的に求められる複式思考」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年1月号)
(13) ジャン=ジャック・サロモン著『技術の宿命』(バラン社、パリ、1992年)
(14) 「生殖医療−倫理と法律」(エチュード誌第3816号、パリ、1994年12月)、および「鑑定から見識へ」(科学・文化横断誌第32 号、1995年3-4月)を参照
(15) 持続可能な発展のためのフランス委員会「フィリップ・クリルスキーとジェヌヴィエーヴ・ヴィネーによる首相への報告書に関する答申−慎重の原則」(2000年3月)
(16) 『ありうる人間−偶然の子づくりから規格の子づくりへ』(スーユ社 パリ、1999年)。また、パトリック・ヴィヴレ「バイオテクノロジー時代のヒューマニズム再構築に向けて」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年2月号)を参照
(17) 個々の具体的状況への道徳原則の適用にかかわる議論。中世スコラ哲学でさかん。転じて、良心の呵責を逃れるための屁理屈の意。[訳註]


(2000年9月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Watanabe Yukiko + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)