追い詰められたロシア軍の牙

ヴィッケン・チェテリアン(Vicken Cheterian)
ジャーナリスト、ジュネーヴ

訳・吉田徹

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 1999年6月、ロシア兵200名がボスニアの基地から空路経由でコソヴォに向かい、プリシュチナ空港などに配置された。セルビア軍上層部との密接な連携の下にロシア軍が起こした行動は、まだユーゴスラヴィアと交戦状態にあった北大西洋条約機構(NATO)の意表を突いただけではない。当のロシアの外相や国防相にとってもまったく予想外であった。参謀本部が事前に大統領に報告していたのかどうかは、今もって明らかになっていない。

 他方、チェチェン侵攻についても、軍の将校は繰り返し、作戦に対する文民統制に異議を唱えた。西部方面軍のシャマーノフ司令官は、仮にチェチェン軍への攻撃中止命令があったとしても、国を売り渡すような命令に従うつもりはないと公言した。「そうなったら肩章を引きちぎって、民間に行く。そんな軍隊には仕えられない」と彼はテレビで宣言した(1)

 ロシア政治の中で軍がこれまでにないほど存在感を強めている。政治決定への軍の関与は明らかに増している。政治学者のニコノフ元下院議員はいう。「軍の政治への影響力が変わりつつある。1825年のデカブリスト(2)の乱以来初めて軍人への文民統制が問題になっている」

 エリツィン政権末期の首相の人選をみても、その傾向は明らかだ。プリマコフ、ステパシン、プーチンの3人とも、KGB(国家保安委員会)の幹部の出身である。それもあってか、政治エリートや多くの国民には、新しい大統領はロシアの直面する課題に立ち向かえる強い男と受け止められている。プーチンは大統領代行となってすぐ、戦闘部隊に勲章を授けるためチェチェンへと飛んだ。また、クレムリンの主となってから一カ月と経たないうちに、軍の資材調達費の50%増額を命じた。

 ゴルバチョフ時代のペレストロイカとグラスノスチは、弱体化する経済と増大する軍事支出という矛盾の解決を目的としていた。ソ連の経済が近代技術、消費財、生活水準のすべてにおいて欧米に遅れをとっていたのに対し、その軍事力は質においてNATO軍と拮抗していた。量においては通常戦力、核兵器ともにNATOを凌駕するほどだった。

 70年代と80年代を通じて、社会の大多数はソ連の経済発展の阻害要因を主として巨大な軍事部門にみていた。そこでゴルバチョフは、軍事支出削減による経済の活性化を掲げ、一連の改革に着手した。しかし、彼が導いた変化は複雑な結果をもたらし、それが極めて硬直的なシステムに致命傷を与えたのだった。

 ソ連邦の崩壊はソ連軍の凋落を意味した。80年代初頭、ソ連には(アメリカの210万人に対し)400万から530万の将兵がいた。それがロシアでは、94年の第一次チェチェン戦争の初期に210万人を数えるのみとなった。現在の兵員は120万から130万人の間といわれ、2000年8月11日のロシア安全保障会議では将来の90万人体制が視野に入れられたという。

 こうした兵力縮小は、整合性のある改革やリストラによって実施されたのではなく、前代未聞の崩壊から生まれた。それも道理である。ソ連は軍と軍産複合体に多大な資源を割り当てていた。80年代初頭、ソ連軍の予算は約2500億から3000億ドル、つまり国家歳入の半分以上にのぼっていた。

 それがロシアになると2000年度の歳入は249億ドル、軍事予算はそのうち60億ドルに減った。1991年から97年にかけて、軍用品の生産は80%も縮小した(3)。軍需産業は輸出に活路を求め、99年には総額約30億ドルを輸出した(4)。今やNATOは、通常戦力でも核兵器でも質・量ともに優位に立つだけでなく、兵力で3倍も上回るようになった。

チェチェン、そしてコソヴォの衝撃

 中南米のように政治に干渉する伝統はないものの、ロシア軍部は衰えてなお、政治的に大きな存在であるといってよい。過去10年に何度か起きた政治劇では軍部が決定的な役割を果たした。91年8月の保守派クーデターが失敗したのは、軍部の賛同が得られなかったからだった。93年10月にエリツィンが議会を転覆し強大な大統領権限を獲得できたのは、逆に軍部が最後の一撃に加担したからだった。

 ロシア初の大統領は、国の全面的な崩壊状態を奇貨として軍の機構改革に着手できたはずだが、本格的に取り組んだのは97年になってからのことだった。エリツィンは、軍部の反乱によるソ連の復活や政権転覆を真剣に恐れ、二面作戦を展開した。彼は軍を細分化し、それぞれを異なった指揮命令系統の下に置いた。その一方で、自分に忠実な部隊を要所に配置したのである。

 ソ連軍の崩壊について、「原因の一つは、一般的な経済利益が防衛産業のそれと一致しなかったことにある。ゴルバチョフ政権にもエリツィン政権にも、軍や軍需産業を潰せない理由などなかったはずだ」と軍事専門週刊誌ネザヴィーシモエ・ヴァエンナエ・アバズレーニエ編集部のセルゲイ・ソークットはいう。

 10年にわたる経済改革の後も、状況はほとんど変わっていない。金融界や経済界の新しいエリートは、軍産複合体の末裔に近寄ろうとはしない。軍関係者の側もオリガーキー(寡頭支配者、転じて新興財閥)の権利を守ろうとはしない。「この点はカスピ海のエネルギー資源をめぐる争いによくみてとれた。軍は地域一帯で軍事的優位を誇りながらも、その力をロシアの石油会社のために活用しようとはしなかった。軍は今でも奉仕すべきは国家であって、民間の利益ではないと考えている」とソークットは言葉を結んだ。

 94年になると、軍の崩壊ぶりはいっそう目立つようになった。96年に大統領選を控えたエリツィン大統領は、主に選挙対策のためにチェチェン侵攻を決定した。しかし、一介の兵卒から参謀の高官に至るまで、あらゆるレベルで戦争反対の声が上がった。グロモフ国防次官は軍の準備が整っていないと公に表明し、ウォロビヨフ副司令官は指揮を取ることを拒否した(5)。連邦からの分離を欲するチェチェンに送り込む兵士3万人と戦車80両の確保すら、参謀本部には至難のわざであり、最初の2カ月間はFSB(連邦保安局、旧KGB)と内務省の将校が作戦を指揮した。こうした混乱は、チェチェン侵攻に関与した将校たちの苦い記憶となり、復讐心を掻き立てることになった。

 チェチェンでの敗北は、97年の機構改革にもつながった。兵員は120万に削減され、軍全体が陸軍、海軍、空軍、戦略軍の4つに再編された。しかし、この拙速な改革は、現在のロシア軍事政策につきまとう問題にぶつかることになった。人口減少の中でいかに人員を確保していくのか。逼迫する財政、非効率的な国家行政、蔓延する汚職の中でいかにリストラを進めていくのか。

 コソヴォ戦争は、ロシアの国民と政策決定者を震撼させた。「NATOはセルビアの後でロシアを空爆することもできたが、それをしなかったのは、ひとえに核兵器の存在ゆえだ、という考えが広まっている」と、カーネギー国際平和財団モスクワ支部の軍事専門家アレクサンドル・ピカーエフは言う。確かに、当時の世論は「親西側」改革の結果が芳しくないことで鬱憤をためており、政治エリートも国際舞台から遠ざかろうとしていた。

 モスクワは東欧、バルカン、中東の国々に関して発言権をなくしただけでない。ワシントンは、その変幻自在の「国益」の枠組みにカスピ海を少しずつ組み込み、さらにはバルト3国やウクライナといった旧ソ連地域へのNATO拡大まで匂わせるようになった(6)

 その結果、ロシアの新しい「安全保障概念」には、NATOの対ユーゴ戦争によって引き起こされた恐怖が反映されることになる。「国際舞台における根本的な脅威は(中略)、軍事・政治ブロックおよび同盟の強化にあり、なかんずくNATOの東方拡大にある。ロシア国境隣接地帯における外国の軍事基地や重大な軍事プレゼンスの出現にある(7)」。そのような状況に対処すべく、「軍事侵攻を食い止める必要があり、危機解決のために他のあらゆる手段が試みられ失敗に終わった場合は、核も含めた戦力と優位の全面的な活用」が想定されている。

通常戦力の強化か、核兵器の堅持か

 実際には、核兵器の使用をちらつかせるところに、通常戦力に劣るロシア軍の実態がさらけ出されている。「ロシアは今日、おそらく18世紀以来初めて、自らよりも積極的に軍事力の発展にいそしむ国に囲まれている」と、ロシア戦略研究センターのマキエンコ副所長は指摘する。「トルコでさえ、ロシアに勝るとも劣らない軍事力を備えている。だからこそ、核兵器が我々の最後の手段となるのだ(8)

 ドゥーマ(ロシア下院)はSTART II(第2次戦略兵器削減条約)を調印から7年後の2000年4月14日に批准したが、これは議会が新大統領と協調するというだけでなく、アメリカおよびNATOと軍縮交渉を再開する意思があることを示している。START IIによって米ロ両国の核兵器は半減され、核弾頭はともに約3500個に制限される。さらにSTART IIIの交渉が成功すれば、この数字は1500にまで下がる可能性がある。だがモスクワは、ワシントンが1972年のABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約を破れば、START IIを破棄する権利があると牽制する。

 事実、アメリカのミサイル防衛計画はモスクワにある種の困惑を引き起こした。もしワシントンがこのミニチュア版「スター・ウォーズ」を採用すれば、ABM条約に違反することになる。さらに、ロシアが核兵器を軍事戦略の切り札とする現状で、アメリカがミサイルの脅威を完全に取り除こうと試みるのは、ロシアの政治家に挑戦状を叩きつけるに等しい。「軍事的にアメリカと競い合うことはできない。それは不可能というものだ。我々ができるのは非対称的な対応策を考えることだけだ」と、国立シンクタンクであるロシア戦略研究所のコジョーキン所長は述べる。START IIの批准には、将来のミサイル構想に関する交渉でロシアの立場を有利にするという側面もあるが、ロシアの核兵器が近代化しようにも古すぎて、コストが掛かりすぎるのも事実である。週刊誌イトーギの軍事評論員アレクサンドル・ゴルツは、「ロシアの兵器の70%以上は老朽化により使えなくなっている。近い将来、我々自身の安全のためにも代替する必要がある」という。

 こうした状況を考えれば、チェチェン戦争によってセルゲイエフ国防相とクワシニン参謀総長の対立が激化したのも不思議ではない。軍部は国防相が核の力を過信し、新型弾道ミサイル「トーポリM」の開発に金をかけすぎだと批判する。これを発端として参謀本部は反撃を始めた。ロシア軍はプリシュチナ空港を電撃的に占領し、チェチェン戦争に関する独自の認識(全面戦争であり、交渉の余地はない)を押し通すことで、政治の舞台に進撃した。軍部はその見返りとして、軍事予算を増額し、戦費に充てる追加資金を出すとの約束を大統領から取り付けたのである。

 国防省と参謀本部の諍いは、しばらく前から公然と繰り広げられていた。それは官庁内部の予算争いという以上に、将来の軍事方針と外交政策に関わっている。セルゲイエフ国防相が主張するミサイル戦力の強化は、アメリカと競い続けるという選択を意味する。ロシアがアメリカの向こうを張って超大国の仲間入りを果たすには核兵器しかない。しかし、セルゲイエフ国防相とその側近の主張が通る見込みは薄い。8月初めに国防省の高官6人が解任されたことは、彼らにとって大きなダメージだった。

 それとは対照的に、クワシニン参謀総長の陣営は、チェチェン戦争だけでなく、旧ソ連諸国、バルカン諸国、あるいは中東や北アフリカの旧ソ連同盟国に対する積極政策も視野に入れた通常戦力の強化を主張する。彼らの主張は、投資不足で苦しむ技術・産業分野には軍需が活性剤になると期待する旧ソ連の軍産複合体の後継者たちに支持されている。

 別の言い方をするならば、エリツィン時代の経済改革の失敗と、モスクワを国際舞台でも旧ソ連地域でも孤立させることに成功した西側の外交政策によって、ロシアは新しい軍国主義時代に突入しようとしているのである。

(1) ロイター電1999年11月9日付
(2) 1825年12月14日、ニコライ1世に改革を迫るためサンクト・ペテルスブルクの兵士に蜂起を呼びかけた将校たちの通称。蜂起は失敗し、首謀者5人が絞首刑にされ、残りはシベリアに追放された。
(3) ソ連が1990年に1600両の戦車を生産したのに対し、ロシアが97年に生産したのは5台にとどまった。爆撃機の生産は同じ期間に430機から70機に減った。Cf. The Military Balance, 1999-2000, The International Institute for Strategic Studies, Oxford University Press, 1999.
(4) イズベスチヤ紙1999年12月29日付。ロシアの輸出額は97年に25億ドル、98年に28億ドルにすぎず、98年に570億ドルと見積もられる世界の武器貿易におけるシェアは小さい。
(5) Pavel Baev, The Russian Army in a Time of Troubles, Prio, Oslo, 1996.
(6) コソヴォ戦争が米ロ関係、そして米軍の対ロ・対中戦略に与えた影響に関しては、ジルベール・アシュカール『新しい冷戦』(フランス大学出版、パリ、1999年)を参照のこと。
(7) 「ロシアの国家安全保障概念」、ネザヴィーシモエ・ヴァエンナエ・アバズレーニエ、モスクワ、2000年1月14日付
(8) インタファクス通信2000年1月14日付


(2000年9月号)

* 註(2)「サンクト・ペテルスブルク」を「サンクトペテルブルク」に訂正(2003年11月26日)

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