ハイテクが生む大衆の阿片

ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)
哲学者・文筆家
主著『技術と時間』(既刊2巻、ガリレ出版、パリ、後続2巻が近日出版される )

訳・ジャヤラット好子

line

 ロトを簡単にしたような宝くじ「ラピド」を、詐欺と決めつけるわけにはいかない。購入者は最初から、勝率が5.5回に1回と知らされている。つまり1回勝って4.5回負けるわけだ。一見すると公明正大にも見える。しかし例えばヘロインやクラックの売人が、法的には彼らの「被害者」とされる顧客に対し、自分の商品が否応なく深刻な依存状態を引き起こすこと、つまりは意志を完全に失わせることを知らせたからといって、「公明正大」などと言うだろうか。

 この種の依存状態は、毒や毒素と呼ばれるものを原因とする。ラピドはどう見ても社会の毒であって、スポーツ選手やそれを真似たアマチュアが用いるコルチコステロイドにもまして、大きな被害を及ぼしているのではないだろうか。販売元のフランス宝くじ公社は、他にもラスベガス、モルピオン、ミリオネール、ケノ、ブラック・ジャック、アストロ、バンコ、ロト・フット、スーパー・ロトといった「社会の毒」を売っており、1999年には378億フラン(約5700億円)もの売上を計上した(1)。ちなみに国営企業だった77年当時の売上は、28億フラン(約420億円)にすぎなかった。売上収入から106億フラン(約1600億円)は国に天引きされ、うち10億5500万フラン(約160億円)はスポーツ振興に回された。差額はどこへ消えたのか。それに、国庫に入らない272億フラン(約4100億円)はどうなったのか。購入者に対する換金率は、ラピドの場合で賭け金の68%止まりである。

 例えばラピドの購入客が毎月3時間ほど公営の宝くじ売り場で遊び(つまり国の収益に貢献し)、5分に1回10フラン(約150円)、3時間で360フラン(約5400円)を賭けるとすると、平均115フラン20サンチーム(約1700円)負ける計算になる。1時間当たり38フラン40サンチーム(約570円)、つまり法定最低賃金の時間給の1.2倍、もし法定最低賃金で働くフルタイム労働者だとしたら月給の2.12%に当たる金額だ。これが毎週3時間となれば(そのような売上ないし税収の獲得に向けた仕掛けは万全)、月給の8.9%を失うことになる。

 フランス宝くじ公社は、いずれ大衆バーなど5000カ所に特殊な機材を置き、カラー端末で当選結果を知らせることを考えている。パリ、ブレスト、ニース、ポワンタ=ピートル(西インド洋)、パペエテ(ポリネシア)、サン=ピエール=エ=ミクロン(北大西洋)、全国どこにいようと、自分が賭けたシート(1〜20までの数字から8個選んだA欄と、1〜4までの数字から1つ選んだB欄の組み合わせ)が電子の形で瞬時に、ヴィトロールの技術センターへ確実に伝えられるわけだ。宝くじの購入者は基本的に非課税とはいうものの、国は彼らに「自分の意志」で金を納めさせることに成功したと言える。ただし、これを「意志」と呼ぶのは、個人の人格についても集団の性格についても、概念の退廃であるとしか言いようがない。個人であれば、意志とはそれこそ、計算できてしまう因果関係を無作為な確率と組み合わせただけの仕掛けになど、自分は従わないと言い切る能力にある。自由なきところに意志はなく、制約条件なき因果関係としてしか自由は存在しない。

 法的には社会契約を出現させる原理とされる、集団の意志についてはどうだろうか。その本質は、上に述べたような従属を生み出しかねない行為を禁ずるところにある。退廃的な概念によれば、人々は「自分の意志」で「自由」にそのような社会的恐喝の仕掛けに従っているのだから、何が悪いということになる。そして同様に「未来」についても、計算可能で計算済みなものという退廃的な概念が示される。そこでは、この社会的退廃の究極の体現者でしかないラピドの当選者、つまり本来なら被害者と呼ぶべき人々を国家が精神的に屈従させ、莫大な利益を手に入れているのである。

 このような「未来」が生み出すのは、大衆の幻滅、重苦しい憂鬱でしかない。そして国家、さらに深刻なことに公共利益の概念が崩れ出し、ついには一切の未来へのあきらめが広がる。つまり、全てがあきらめられてしまう。

 ラピドは21世紀のアソモワール(2)なのだ。その「未来」と「意志」のイメージは悲惨で、国家が人々の精神に投げかける死に体の「自由」の概念に照応する。国家がやっていることは、建前上は罠から逃れる「自由」を持った階層の「需要」に合致しているだけに、恥ずべき偽善行為と考えなければならない。

 ラピドや同種の宝くじは、80年代のフランスで「近代的」な支配者達が「税負担を軽くする」ために広めたいかがわしいゲームの真骨頂である。クラックとは言わないまでもアルコールと結び付けられていることから、「情報社会」のネットワークに組み込まれた都市や郊外の酒場を舞台として、人々の生活と精神に恐るべき被害を及ぼしていくに違いない。この被害は目立たず、緩慢に這うように進み、ある種の心地よさを感じさせる。どう見ても劇的ではないがゆえに、近代的な(民主的な)人権社会の「許容範囲」に悠々と収まるからだ。

精神のエコロジー

 ラピドのようなゲームは、国家だけでなく「番組本位」産業、特にテレビ局にとっても高収益ビジネスとなる。例えばロトの抽選結果の発表は、視聴者大衆だけでなく、広告主に対する重要な「接客の場」でもある(3)。ラピドは、情報・AV・通信技術の統合によって磨きをかけられ、すでに古びた他のゲームと同じく、テレビに「プラグイン」するに違いない。そして、じきにインターネットと「未来」計算機の高度機能を活用し、大衆を総白痴化していくだろう。

 「白痴」とは、目先の「未来」にとらわれた意識であり、その未来とは「勝率5.5分の1」といったフレーズでもれなく終わってしまう程度のものでしかない。この定義は、もれなく理解を尽くしたということではなく、白痴化された意識に対する価値判断を構成するわけでもない。もはや白痴化が逃れようのない万人の宿命である以上、マインドコントロールによって自由意志を剥奪された被害者は、なおさら保護されなければならない。我々は愚か者が狙われる時代に生きているのであり、ラピドもその極端な一例でしかない。

 「情報社会」が新規に提供するサービス「ラピド」は、総デジタル化による技術統合を避けがたく生み落とした「文化のハイパー産業化」の表れである。文化のハイパー産業化は、ホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』(4)の中で分析した「文化産業」のインパクトを徹底強化する。インターネットを介したテレビとコンピューターの統合により、明日の「テレビジョン」端末は「テレアクション」端末へと変わるだろう。そこでは、文化産業が産業全般そして「情報社会」の核となる。

 この「情報社会」は「今後」の現実であって、我々はその中で「未来」を見出さねばならない。「今後(devenir)」イコール「未来(avenir)」ではない。同じだとうなずくならば、運命は宿命に成り下がってしまう。「今後」と「未来」の混同こそ、「未来」概念の退廃の主要な原因である。そこでは「近代性」が「あきらめ」の同義語となっていく。これがまさに、現代の政治的混迷の源にある。かといって、「未来」を守るためにと「今後」をはねつけるのも、両者の違いを理解しないのと同じぐらい有害な幻想でしかない。ひたすら非難する姿勢に安んじるのは無益であり、何よりも危険である。「抵抗」もまた充分ではない。その先の思考、提案、行動、つまり創意工夫が要る。それは、あらゆる意味で「批判」を行うということだ。見分け、分析し、理解し、問題を抽出すること。

 文化情報産業に対する批判が必要だ。その際の概念装置としては、何かしら「精神のエコロジー」といったものを基本にしなければならない。産業革命から200年、モノとエネルギーを生み出してきた産業が、ついには現代社会の大きな関心事の一つとなったエコロジー問題をもたらしたように、ラピドのような良からぬ公害を生み出す文化のハイパー産業化が、「精神のエコロジー」の要請をもたらすことは時間の問題だろう。

 「エコロジー」とは、世界の住みやすさについての論議を意味する。ポール・ヴァレリーが『精神の危機』(5)の中で定義した意味での「精神世界」というものがある。精神のエコロジーとは、精神の住みかについての厳密な思考である。なぜなら精神には住みか、環境があって、この住みかは進化に従い、進化の源には技術があるからだ。石器から聖霊の書(聖書)を経てコンピューターのシリコンチップへと技術は進化した。精神は文字を、あるいは支持体や媒体を欲する。この媒体はマスメディア・システムと呼ばれ、コミュニケーション技術を通じて、19世紀末に勃興した産業活動の道具となった。それに対し、20世紀には精神の情報機械処理が発達し、ソフトウェア、エキスパート・システム、サーチ・エンジン、リアルタイム演算ネットワーク装置によって情報技術システムが形成された。現在進行中の「統合」は、この二つのシステム(マスメディアとデジタル演算技術)の統合にほかならない。

 新石器時代に次いで記憶術の時代が現れ、その後に最初の表記法が登場した。ルロワ・グーランが外在化現象と呼ぶものが始まった時代(彼によればオーストラロピテクスの時代)になると、生命は個体の体験の痕跡を保存し蓄積できるようになった。以前には不可能だったことである。神経の記憶が個体のレベルで保存する事件を、遺伝子の記憶は受け継がない。そして、個体が死ねば神経の記憶も消える。それに対し、人類と共に出現した記憶の支持体は、事件の世代間伝達を可能にし、さらには文化の誕生へ道を開いた。

 精神は、生体の個々の体験を世代から世代へと伝え、共同の体験とすることを可能にする。伝えられるのは事実の記憶だけではない。解決すべき問題、繰り返される疑問、擁護したり活用されたりする思想もまた、遺産として伝えられていく。数学、芸術、形而上学、政治、宗教、技術。

 つまり精神とは、過去回帰の能力である。それゆえ、この言葉(l'esprit)は死者の魂、霊の意味にもなる。しかし、メディアのない(媒介のない)ところに精神はない。メディアは、無機物の有機化たる記憶を保存する。記憶はもろく、「風化」しやすい。情報とコミュニケーションの技術が発達するゆえんである。しかしながら、技術の発達は精神そのものの変質でもあり、今日ではまさに逆説的というべき事態をもたらしている。現代の意識は、記憶の産業利用によって衰弱し、破壊の瀬戸際にあるように見えるのだ。

意識の市場価値

 それはなぜか。今や経済の今後を制するのは、生産方式や生産コスト以上に市場を制することにある。視聴者の獲得が、そのキー要因となっている。かくしてマス・メディアは、時間に即するという視聴覚対象の特性を活用しながら、意識の時間を捕捉して売り出す方向に発達してきた。時間に即した対象(メロディやフィルム)の特異なところは、その対象の流れが、対象を捉える意識の流れ、つまり意識自体の時間と符合することにある。この符合により、意識の時間が対象の時間に準ずることが可能となる。意識が、メディアによって流される対象の時間に仮託した自己の時間を「生きる」ことが可能となる。その結果、意識の時間はコミュニケーション産業の原資となった。

 この産業が売っているのは番組ではなく広告の視聴率である。番組の有用性は、売るべき意識を引き寄せることにしかない。そして意識1時間分の市場価格はそれほど高くもない。ある一般チャンネルが19時50分から20時50分の間に1500万人の視聴者を獲得し、その時間帯の広告で300万フラン(約4500万円)の純利益を上げたとする。人間の意識は視聴率市場で1時間に20サンチーム(約3円)の「価値」ということになる。

 意識を捕捉することで、生活様式を改めさせたり、大がかりな行動の変化を仕掛けることができる。世界中にアメリカ流の生活様式を採用させたアメリカ映画がまさに代表的だ。ところが、「自然」の産業利用がそれを破壊するリスクをはらんでいるのと同様、ここでもエコロジーの問題が持ち上がる。

 意識時間の生産の産業化には、前の世代から受け継いだ遺産であり、未来へ可能性として残すべき精神を破壊するリスクがある。とはいえ、「精神のエコロジー」の展望には数々の疑問も投げかけられる。一般のエコロジーと同じように、精神警察や極右思想へと常に傾いていく可能性もある(6)。エコロジーの論議に、きたるべき技術に即した思想が求められるゆえんである(7)。拙書『技術と時間』(8)では、人間と技術という対立をもはや超克すべきことが論証されている。

 文化産業を激変させている現代のデジタル革命は、コンピューターに支援された白痴化の仕組みを押し広げることになるのだろうか。ラピドの成功を見ると、その懸念はあるだろう。別の方面でも、情報電子ネットワークの発達により、ある種の企業の幹部が「認識飽和症候群(congnitive overflow syndrom)」をきたしていることが認められる。これらのインテリ労働者は、きりのない情報の流れに圧倒され、あたかもラピドの購入者のごとく、思考力や決断力を失いつつあるように見える。衰弱化と愚鈍化が進み、ついには働く力も失いかけているように見える。「白痴化」とまでは言わないにしても。

(1) フランス宝くじ公社1999年活動報告を参照。http://www.francaise-des-jeux.fr
(2) 19世紀のアブサンの俗称で、エミール・ゾラの有名な小説(邦題『居酒屋』)の題名となった。
(3) ダニエル・シュネーデルマン「公営ビジュアルロト」(ル・モンド、2000年7月16-17日付、別刷りラジオ・テレビ欄)参照。
(4) マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波書店、1990年)
(5) 桑原武夫、河盛好蔵責任編集『世界の名著66−アラン; ヴァレリー』(中央公論社、1980年)所収
(6) ギヨーム・サントニー「緑の服を着た極右勢力」(リベラシオン、1999年2月24日付)、エルヴェ・カンプ「自然と社会の間のエコロジー」(ル・モンド、1998年12月24日付)参照
(7) この思想に寄与しているのがレジス・ドブレとメディオロジーだが、私が今日までに知る限りでは、「今後」と「未来」の違いを明確化したことも、理論化したこともない。レジス・ドブレ「メディオロジーとは何か」(ル・モンド・ディプロマクティーク1999年8月号)参照
(8) 『技術と時間』既刊2巻(ガリレ出版、パリ、1994年および1996年)参照。


(2000年8月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Yoshida Toru + Hayama Kumiko + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)