グローバル公共財という考え方

インゲ・カウル(Inge Kaul)
経済学者・社会学者、国連開発計画・開発調査室長


本稿は筆者の私見であり、Isabelle Grunberg, Marc A. Stern との共著
Global Public Goods. International Cooperation in the 21st Century,
Oxford University Press, New York, 1999
(邦訳『地球公共財』、日本経済新聞社、1999年)を補足するものである。

訳・吉田徹、斎藤かぐみ

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 5月初旬、CIAのレポートは、世界的なエイズの蔓延が米国の安全保障にとって脅威となるとの認識を初めて示した。ホワイトハウスは対策として、2億5400万ドルの支出を決定した。露骨だという見方もあるだろう。脅威にさらされているのは米国より真っ先に、多くの感染者の出ている国々ではないだろうか。だが、国家が明らかに自国の利益に沿って政策を決めていることを認めるにしても、米国の事例は、国家を人類の利益のための協力に導く経済的インセンティブ(誘因)は何かということを考えさせる。[訳出]

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 グローバリゼーションをめぐる議論の中で「課題」「争点」「問題」といった言葉を聞かない日はない。こうした物の言い方が、国家、企業、NGO、個人それぞれの善意に訴えて「処置」「考慮」「良心的な自問」や「市民的」行動を促すにしても、示された「課題」や、それに対して組織的かつ効率的に対処するための仕組みが、経済上どのような意味を持つのかという点は視野に入ってこない。

 とはいえ、新自由主義的な考えを持つ人々の間でさえ、次の二つのポイントが注目されつつある。

  • 規制の甘い国のせいで他国が(社会的、経済的ないしは環境)コストを負うようなことは、不公平なだけでなく、非効率的である。

  • 拡大する貧富の差は、重大な「負の外部性」と経済学者が呼ぶ効果を生み出す。つまり、貧しさは豊かさをむしばむ。

 この分析は特に、国境を越える環境汚染や感染症、生活上の欠乏(貧困や基本的人権の侵害は国外移住を促す)、あるいは商法(投資家は知的財産権や金融制度の整備を求める)などに当てはまる。

 そこで必要となるのが、「公」と「私」、つまり「私的」アクター(企業やNGO、個人だけでなく、国家を含む)のグローバルな活動と世界的な公共性との、バランスの再考である。どうすれば、様々なアクターに対して自己の行為に責任を持たせ、その行為が引き起こす弊害についても責任をとらせるようにできるだろうか。

 そのためには、新しい思考手段を発明しなければならない。現代のグローバリゼーションの下で、共同目的の実現と国際的な協力を介して「私的」ニーズ(国益も含む)が充足される事例が増えていることを示す用語や概念を、編み出さなければならない。なかでも、「グローバル公共財」の概念は有用である。

 まず第一に、伝統的にグローバル公共財とされてきた諸分野がある。これらは国家の「外部」や国境地帯に見出され、その規制は「外交問題」として取り扱われている。人類の活動以前から存在する宇宙や海洋は、国際的な規制の対象とされる。公海の自由通航を保障する国際条約が最初に結ばれたのは、17世紀のことだった。19世紀から20世紀初頭にかけて、国際的な経済活動がさかんになるにつれ、運輸や郵便、電気通信、民間航空などの分野について、同様の協定がいくつも作られるようになった。これらの協定のうち世界規模の多国間協定は、共同の規制の枠組みを築くものであることから、それ自体がグローバル公共財に相当する。この第一のタイプのグローバル公共財は、国際的な経済活動が増大し、技術と通信のグローバリゼーション(インターネット)が進む現代、ますます重要なものとなっている。

 そして、今日の重要な政策課題となった世界規模の諸問題が、第二のタイプのグローバル公共財を構成する。それらは単に国家の「外部」にあるのではなく、国境を越え、いわゆる「外交問題」の枠をはみ出していく。これまでずっと、私たちは天然の公共財(オゾン層など)を無料の財のように考えて、むやみやたらと消費してきた。今や世界各国は、フロンガスや再生不能エネルギーの使用削減といった是正措置をとらなければならなくなった。

 いわば、「外部」にあると思われていたグローバル公共財が、内政の課題になったのだ。逆に、伝統的に内政分野に属すると見なされてきた公共財(保健、知識の管理、市場の効率、金融の安定、あるいは法律、秩序、人権、経済的公正)は、一国の主権に収まるものではない。例えば、感染症の監視は100年以上前から国際協力の重点分野となっているが、もはや各国の警戒制度を調整するだけでは立ち行かなくなっている。なぜなら、どこかの国家が他の分野に予算を回すために(あるいは自国の衛生問題を隠すために)手を引いて、こうした仕組みに穴が開くことも考えられるからだ。別の言葉で言い換えれば、このような世界的な政治の問題には、(公海の外国船通航の自由を保障するなどの)原則協定を結ぶ以上に、各国の政策を調和させ、現場の着実な変化を促すことが求められる。

 この新しいタイプのグローバル公共財が登場した背景には、いくつもの要因が見出される。第一に、国境が大きく開放されたために、労働ダンピング、競争力改善のための通貨切り下げ、さらには高リスク行動(喫煙など)といった「グローバル害悪」が広まりやすくなった。第二に、グローバリゼーションの下では、国際金融市場に内在する変動性、世界的な気候変動、不平等の拡大による政変といったシステミック・リスクが生まれかねない。第三の要因は、私的部門の非国家アクターと国際企業、それに市民社会とNGOの力が増大したことである。それぞれ固有の目的を持つ国際アクターは、技術標準であれ、人権擁護であれ、諸国政府が共同の政治規範を採用するように働きかける。

グローバルな生産戦略

 しかし、専門家や政策責任者は、公的な方面に関する思考手段を欠き、変化した現実に十分に取り組んでこなかった。グローバル公共財の概念自体、知られていない。その記述と分析にあたる用語法も、あまり普及していない。こうして、あいまいな言葉で問題が語られ、グローバル公共財をクローズアップするような手法がまるで知られないままになっている。

 財の生産とは、どのようにして確保されるものだろうか。私的な財の場合、原則として需要によって投資と生産が促される。私企業は、効率と競争力を確保すべく入念な事業計画を立てる。それに対し、グローバル公共財をはじめとする公共財への需要は、皆が応分の負担をするわけではなかろうという思惑によって下方修正されている。つまり、「フリー・ライダー(ただ乗りするヤツ)」の問題である。

 グローバル公共財を生産するためには、その意向があるだけでは足りない。オゾン層の破壊防止のためにフロンガス排出削減を目指す1987年のモントリオール議定書は、まったく例外的な事例といえる。議定書の目標は簡潔で、そのためのインセンティブも明快である。例えば、最貧諸国が約束した義務を果たせるように追加的支援が盛り込まれ、他方では、義務を果たさない国に対する罰則(貿易制裁)が定められている。この議定書に沿って、グローバル公共財の生産戦略を立てることができる(1)

 対象を3種類に分け、それぞれについての取り組みを考えていく必要がある。

  • 清浄な空気(控えめな目標でいえば温室効果ガスの削減)などは、「加算法」の分野に属する。この種の財は、多数の均等な貢献を合算することでしか得られない。つまり、バングラデシュで出さずにすんだ温室効果ガス1トンも、ブラジルやペルー、米国やドイツで出さずにすんだ温室ガス1トンも、重みは等しい。すべてのアクターが同一のルールに従わなければ目標が達成されないことは言うまでもない。全体として制限値に収めるようにするための各自の貢献は、98年の京都会議で米国が主張した方式によれば、現物(実際の排出削減)でも現金(他国からの排出権購入)でもよい。

  • その他については、逆に弱いところを支援するのが良い戦略となる。例えば、感染症拡大の予防や国際テロ行為の防止には、すべての国が共同で事にあたる必要があるが、どこかの国が脱落すれば他国の努力が水の泡になってしまう。支援がない場合に生まれるグローバル害悪のコストは、支援のコストよりもはるかに大きい。もっとも弱いアクターを支援するのは、(必要というだけでなく)効率的である。

  • 若干のグローバル公共財、とりわけ知識分野の財については、決め手の一押しの効果が大きい。どこか一つの場所でポリオ(急性灰白髄炎)のワクチンが開発されれば、それを世界中で使用できるようになる。ただし、こうした成果にもっとも貧しい人々があずかることが特許によって妨げられなければ、という条件が付く(2)。とはいえ、公共の害悪を財に転換するには、無数のアクターが下から上へ向けて、根気強く共同の努力を重ねる必要がある。

 いずれの場合も、様々なアクターが国政レベルでも、国際レベルでも、まとまって協議することが不可欠となる。ところが、多くの国では既定方針として、「内部」と「外部」を杓子定規に区別するきらいがある。政治上、通商上の対外関係に含まれないものは、何であれ内政問題と見なされ、外交問題に含まれるものはほとんどが、外務省を中心とした政府によって処理されている。

 最近では、外交官以外の専門家(特に環境、通商、金融、麻薬・テロ対策)を大使館に送る国も見られるとはいえ、国際関係が基本的に官僚に担われていることには変わりない。

優先順位を付けるための基準

 グローバル公共財の重要性が日に日に増しているというのに、国家は相変わらず、国際舞台では「私的」アクターのように振る舞っている。「国益」を第一とし、もっとも合理的な最善の選択は、他国が公共財を提供する気になるのを待ち、それを無償で享受する「フリー・ライダー」路線、といった考えに流れがちなのだ。

 このような構造的無関心を反映して、立法府も基本的に内政分野だけを手がけている。ごくわずかの例外を除いて、国際的な会議や会合の代表団に国会議員の姿がないことが目を引く。国際協定が煮詰められ、国内法に転換される段になって、初めて代議士の耳に入るというのはよくある話だ(3)。時には国際協定の存在そのものを知らないことすらある。

 また、諸国の政治家は、自分の決定が国外にどのような効果を及ぼすのか、あまり考慮しないことが多い。「外部性」とその「内部化」(コストの勘案)が国内の政策論議で話題になるのは、環境問題ぐらいのものだ。

 この現状からすれば、国際的な協力に充てられる予算が不十分であるのも意外ではない。先進国の場合、金融危機への介入、オゾン層保護や温暖化対策など世界の保全のための資金は、途上国向けの開発援助や緊急援助資金の中から計上される。ある計算によると、年間500億ドル程度の開発援助総額のうち四分の一近くがグローバルな用途、つまり、開発途上国の(「私的な」)ニーズや利益に応えるというより、世界の均衡を維持するための用途に振り向けられているという。この2種類の対外援助の割り振りを明らかにするには、国家会計上、両者を分離する改革が早急に求められる。

 開発途上国に関していえば、たとえ余力があったとしても、国際協力のために予算を付けることはめったにない。総額8兆ドル近くにのぼる公共支出のうち、国際協力に割かれるのは毎年約120億から150億ドル程度でしかない。

 それに、たとえ近い将来に強固な政治的意思が生まれたとしても、相応の手段を持たない政策決定者たちには対処のしようがない。内政の国際的な波及効果に関する分析も研究もほとんどなく、統計も整っていない。省庁間の対立もあいまって、政策を実行に移そうとしても、使える資源はないに等しいのが現状だ。

 では、どうしたらよいのだろうか。手始めに、グローバル公共財の概念をしっかり研究し、それが日常生活に及ぼす効果の分析を進めなければならない。例えば、金融の安定は、雇用や年金にどう関わっているのか。貧富の拡大は、人口移動や平和にどう関係してくるのか。幸福な生活がグローバル公共財と国際協力のおかげで成り立っていることを人々が自覚しない限り、政治家たちも、そのような必要に立ち向かい、「外部」(オゾン層など)を国内政治の問題に組み入れ、「内部」(保健、年金など)を国際問題として再考するような使命感を持つことはない。

 となると、国際協力に関する決定への代議士の関与が優先課題となる。少なくとも、通常は官僚の手に委ねられている「外部」の領域から、諸々の争点を市民へと引き寄せなければならない。

 他方で、グローバル公共財について考えるにあたっては、グローバルな正義の原理を基本にしなければならない。グローバルな財が公共財であるとは一概に言えない。そこに誰もが同等の価値を認めるとは限らないからだ。例えば、欧米の投資家は金融システムの安定を重視するが、旅行する時にはマラリア対策を有り難いと思うだろう。

 その逆に、途上国の農民はマラリア対策を望みはしても、自国通貨の変動から直接の影響を受けることはあまりないだろう。同様に、民間企業の研究投資を促すために知的所有権の保護を重視する人々もいれば、知識の伝播を重視する人々もいるなど、優先順位は様々に唱えられるだろう。グローバルな正義の観点から、こうした相矛盾する要求の折り合いを考えていかなければならない。

 グローバル公共財の実施プログラムでは、様々な関係者の異なる優先課題が公平に配慮されなければならない。また当然ながら、そうして作り出される公共財が、現在の不平等をさらに広げるものであってはならない。このジレンマをもっともよく象徴しているのがインターネットである。インターネットの発展により、知識を安価に伝播できるようになった一方で、「インフォ・リッチ(情報富者)」と「インフォ・プア(情報貧者)」の格差が広がっている。

 同様に、それ自体としてはグローバル公共財である自由貿易システムは、不平等な世界にあっては強者に有利に働き、国際政治に対する不信感を呼び起こす。国際交渉の多くは先進国の利益に適うグローバル公共財に関するものであり、その他の国々の利益は無視されている。つまり、どのようなグローバル公共財を優先するかの順位は、先進国クラブの選好によって決定される。グローバル公共財の推進にあたっては、公平という要素が重要である。シアトルやワシントンの最近のデモで、国際機関で各国の利益が平等に代表されていないことが非難されたのも、驚くにはあたらないだろう。

 正義というものは、このような手段としての意義を別としても、それ自体でグローバル公共財である。そしてこの財は枯渇することがない。つまり、ある者が公平に扱われるからといって、他の者が同様な扱いを受ける機会が減るものではない。公平の原理と実践が受け入れられ、推進されるほど、自分もいずれ公平に扱われるに違いないとの信頼感を誰もが高める。定義からして、すべての国民と地域を通じて、また世代を通じて適用されるべき正義がなければ、全体の利益を守るという主張は空疎である。

 「共有されたグローバルな優先課題」という考えは古くからあった。20世紀を襲った破壊的な戦争の後で、この知恵が活かされたのは間違いない。国際連合はこうした発想から生み出された。ヨーロッパ復興のためのマーシャル・プランも、最貧国に対する国際的な開発援助制度も同様である。この思想が装いを新たにして現代によみがえる条件は揃っている。「グローバル公共財」という概念は、まだ夢想やごたくにすぎないグローバリゼーションの管理を政治的な現実へと変えていくために、決定的な役割を担う可能性を秘めているのである。

(1) この問題への徹底的かつ厳正な取り組みとして Todd Sandler, Global Challenges. An Approach to Environmental, Political and Economic Problems, Cambridge University Press, Cambridge, 1997 を参照のこと。
(2) マルティーヌ・ビュラール「医薬品の国際アパルトヘイトを許してはならない」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年1月号)参照
(3) 多国間投資協定(MAI)の交渉の際、国民議会の外交委員長は、「誰が何を誰の名によって交渉していたのか」知らなかった(ジャック・ラング氏、1997年12月4日)という。[編集部註]


(2000年6月号)

* 冒頭の書名につき、邦訳書名を追加(2000年12月6日)

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