エーゲ海の慎重なデタント

ニールス・カドリツケ(Niels Kadritzke)
ジャーナリスト

訳・柏原竜一

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 4月9日のギリシャ総選挙でシミティス前首相が(僅差で)勝利し、5月5日のトルコ大統領選ではセゼル前憲法裁判所長官が選出された。今後は両国間のデタント(緊張緩和)が進みそうだ。1999年夏の大地震の際に示された連帯感の余韻を残す世論も、それを望んでいる。しかし、行く手には数々の障害が残っている。その筆頭にキプロス紛争がある。公式に欧州連合(EU)の候補国となったトルコは諸々の加盟基準を満たさなければならないが、そこに少数民族の自由と権利が含まれていることは改めて指摘するまでもない。[訳出]

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 1990年代初頭、トルコの外相をアテネに招こうとしたギリシャのパパコンスタンティヌ外相は、ある問題に突き当たった。外務省のレセプション用のホールはすべて、両民族間の殺戮の歴史をたどった壁画で装飾されていたのだ。両国の困難な関係の源には、重い歴史の遺産が横たわっている。1820年代に、ギリシャはオスマン帝国の支配から逃れた。一世紀後、ギリシャはオスマン帝国の廃墟に新たな帝国を築こうとしてトルコに侵入し、その戦いの中から近代トルコが生まれた。

 こうした先祖代々の敵意は、1923年のローザンヌ条約の締結で和らいだように見えた。一触即発の民族政策の危険を取り除くために、両国は住民の強制交換を行うことを決めたのだ(1)。ところが、55年からキプロス紛争が新たな火種として浮上した。両国間の緊張緩和が最後に試みられたのは88年、ギリシャのアンドレアス・パパンドレウ首相、トルコのオザル首相の時代にさかのぼる。しかし、この試みは頓挫した。エーゲ海をはさんだ両国の紛争は複雑をきわめ、96年にはあやうく戦争になりかけたほどだった(2)

 99年以降、新しい流れが見えてきた。トルコのマルマラ地方で8月に起きた地震はギリシャ国内に連帯の波を生み出し、両国間の新たなムードを感じさせた。それは、10月のアテネの地震の時にトルコ国民から同情が表明されたことでも確認された。ここから「地震外交」が出現したと、多くの論者は述べる。しかし、この流れはもっと前、ギリシャの外相交代人事とともに動き出していたのだった。

 99年2月、トルコのクルド人指導者オジャラン氏の拉致事件を受け、パンガロス外相は辞任に追い込まれた(3)。ヨルゴス・パパンドレウ副外相が後任に就き、クラニディオティス元国務長官がヨーロッパ問題を担当することになった。トルコとの関係が最悪になる中で、関係改善に前向きな高官が要職を占めるようになったのだ(4)

 ギリシャの指導者は、とりわけバルカン問題についてトルコの了解を取り付けようと努力した。現行の国境を維持し、少数民族の権利を保護すべきだいう点で、両国は同じ立場に立っていた。それとともに、トルコ系少数民族が住むギリシャのトラキア地方について、トルコは今の国境線の固定を暗黙のうちに承認した。そしてギリシャも、「クルド人問題」がトルコ国家の一体性に疑義をもたらすことはないとの見解を表明し、しばしば軍部などに見られたクルド労働者党(PKK)の分離主義への共感を否認した。

 パパンドレウ外相はまた、ギリシャ領内に住むトルコ系少数民族の法的地位に関する声明により、重要な一歩を踏み出した。この声明は、少数民族に関する欧州会議(5)条約に調印したことの当然の帰結である。初めてギリシャの政治家が、これまでは「イスラム系少数民族」と一くくりにしていた西トラキア地方のイスラム系住民に対し、トルコ系か、ポマック系か、ロマ系かという民族的帰属を自分で決定する権利を認めたのだった。

 ギリシャ政府は、少数民族に関してヨーロッパの規範を認めようと国民に呼びかけながら、トルコ国内でもこの規範を厳しく適用し、よき隣国になることを期待している。つまり、ギリシャによるトルコ系少数民族の認知は、トルコに対する新路線の表れでもあった。その流れを受けて、99年12月のヘルシンキEU首脳会議で、トルコを公式に候補国とする歴史的決定が下されたのである。

 ギリシャはもう何年もトルコを候補国として認めることに反対してきたが、ヘルシンキ首脳会議では拒否権を行使しなかった。こうしてヨーロッパへの門が開かれた。それをトルコがくぐれるかどうかは、今やアンカラの軍人・政治家階級の肩にかかっている。今度は彼らが、すべての候補国に課される「コペンハーゲン基準」(6)を満たすのに必要な期限を決める番なのだ。

4つの要因

 よく、ギリシャ・トルコ間の緊張緩和の立役者は、パパンドレウ氏とジェム氏という二人の外務大臣だと言われる。2000年初め、ギリシャの外相がアンカラに、トルコの外相がアテネに赴いたことによって、その印象はいっそう強くなっている。相互の訪問は一連の二国間協定の署名に結び付いた。しかし今後の歩みは、責任者のパーソナリティーよりも構造的要因に左右されてくる。

 その証拠に、トルコが緊張緩和の象徴を軍事面でも表そうと提案したのに対し、ギリシャ政府はこれを拒否した。「信頼を強化するための措置」につき、トルコは二国間の交渉を求め、ギリシャはNATO(北大西洋条約機構)の多国間交渉の枠組みを考えている。同様に、トルコ側の提案した艦隊の相互訪問は、明らかにギリシャ側の許容範囲を超えていた。

 そうはいうものの、2000年春にはそれぞれの部隊が、NATOの演習の一環として、かつての「宿敵」の領土に展開された。4月、ギリシャの駆逐艦がトルコ沿岸の海上演習に参加し、5月中旬、トルコ軍がペロポネソス半島西部での演習「ダイナミック・ミックス」に12機のF16戦闘機と150名の歩兵を参加させた。ギリシャが慎重に構えたのには、4月に控えていた総選挙の日程も関係していた。とはいえ、トルコとの緊張緩和は主要な争点にはならず、最大野党の新民主主義党(ND)でさえ「対トルコ政策」を支持していた。NDにしろ与党の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)にしろ、「トルコくそくらえ派」の票を取り戻そうとすれば中道派の票を失うことを意識していた。

 しかしながらトルコ問題がようやく政争の具にならなくなったからといって、再選されたシミティス氏の内閣が緊張緩和を押し進めるとは限らない。およそ、慎重な歩み寄りはバラ色の幻想を振りまく急展開よりも、安定した結果をもたらすものだと言える。今の段階では、それぞれの国が新たな路線をしっかりと確立し、現実的な見通しを示すことが決定的に重要である。それには、とりわけ4つの要因が利いてくるだろう。

 第一の要因。両国に共通の利益があり、いさかいにならない主題に議論を集中すること。その線に沿って環境保護、観光、技術協力といった一連の協定を結べば、交流の機会も増え、「大問題」のせいで関係改善が行き詰まる危険を回避できる。

 第二の要因。これまで抑制されてきた市民同士の交流を、政府当局が支援している。この協力の動きには両国合わせて130ものNGOが関わっている。トラキア国境地帯の東西の市町村長らは、ギリシャではエヴロス、トルコではマリーツァと呼ばれる川の両岸に「ヨーロッパ国際提携地域」を創設することまで企画している。こんなことは1年前であれば想像もできなかった(7)

 第三の要因。大地震が、かつては民族主義的な感情を掻き立てていた大メディアの態度を変化させた。96年には、トルコ人ジャーナリストがヘリコプターでギリシャ領のイミア島に乗り付け、「イミア危機」を引き起こすほどだった。ギリシャの側でも、民放テレビ各局(8)が何かにつけてトルコとの紛争を煽っていた。

 第四の要因。ギリシャ・トルコ間の関係は安定した経済を基盤として発展する。緊張緩和の積極的な支持者には実業家も多い。しかし彼らのイニシアチブは、これまで政局の変化に振り回されてきた。ヘルシンキEU首脳会議以降、地方レベルの協力関係が強化され、拡大した。トルコ側のパートナーは、ギリシャをバルカン半島における足がかりとして活用し、ギリシャ側は、トルコのパートナーの助力により、カフカスや中央アジアへ進出したいと考えている。

トルコ国内事情の考慮

 何年もの間、両国の関係はギリシャにとって(またトルコにとっても)、ゼロ・サム・ゲームの規則で動いていた。一方が有利になると他方が不利になり、一方が不利になると他方が有利になるという関係だった。これからは、長期的な結果から評価される戦略である緊張緩和の時代が始まる。

 ヘルシンキ首脳会議によって、以前なら御都合主義と考えられたギリシャの物言い、つまりギリシャはヨーロッパ中でトルコのEU加盟にもっとも熱心な国であるとの主張が、真面目に受け止められるようになった。EU加盟をめざすトルコは最良の隣人となるだろう。というのも、EUの「政治的成果」である民主化と諸民族の権利尊重の推進を求められるからだ。同じことが、82年の海洋条約(EUは批准したが、トルコは未批准)や、ヨーロッパ諸国間の紛争はハーグの国際司法裁判所で解決するという原則にも当てはまる。要するに、トルコがEU加盟候補国として認められれば、「歩み寄りによる変革」が促されるに違いないとギリシャは考えたのだ。そうはいっても、70年代の西ドイツによる「東方外交」のように、目覚ましい成果を期待してはいけない。

 ギリシャはトルコの体制の特殊性を最大限に考慮する必要がある。2000年2月にトルコのジェム外相がギリシャを訪れた際に、シミティス首相の顧問の一人は次のように述べている。「いったいトルコの外相が完全に独立して行動できるのか、これまでによくあったように軍部が協定を反故にするのではないかと自問するのは、きわめて当然のことでしょう(9)」。トルコの建国以来、近代化の父ケマル・アタチュルクを奉じる軍部が西洋の一員になることを掲げてきたのは事実だが、そこに熱意は見られない。というのも、これが視野に入ってくると、政治家・軍人階級は急速な民主化を迫られ、軍部は政治から手を引かざるをえなくなるからだ。

 トルコでは民主勢力が市民社会における影響力を強め、ケマル主義の指導者層に対して要求を突きつけてきた。ヘルシンキEU首脳会議は彼らに軍配を上げた。政治家の権威が相次ぐスキャンダルによって失われ(10)、99年8月の大地震によって「強い国家」のあられもない弱さが暴露された結果、民主勢力は活動の余地を広げてきた。そして、四方八方から敵に囲まれているという感情(「トルコ人の友人はトルコ人しかいない」)が、幅広い国際援助によって大きく揺らいだ。

 とはいえ、トルコのEU加盟基準への適応のスピードは、政治軍事複合体によって決められる。とりわけキプロス問題の場合がそうで、この問題はEUにとってギリシャ・トルコの緊張緩和の躓きの石になっている。トルコの側で、キプロス問題での譲歩(トルコ系の北部とギリシャ系の南部との連邦化)が軍司令部、ひとえに軍司令部の意向に左右される状況は変わらない。それゆえトルコのメディアが1年前と比べれば、はるかに理性的にこの問題を扱うようになったとはいえ、目覚ましい進歩を期待するのは間違いだろう。

 トルコ軍部の中枢が「ブラックボックス」であり、諸派の間でどのような合意形成が行われているのかまったく不透明であるだけに、何らかの予測を立てるのは困難をきわめる。軍部指導者にとって、ヨーロッパとは御都合主義からの選択であって原理原則に根ざした選択ではない、と疑う見方もある。軍司令部はとりわけ、加盟候補国が共通軍事・安全保障政策に参加するのをEUが拒否できないと踏んでいるというのだ。

 このトルコの「ヨーロッパ国家」という側面の持つ軍事的、戦略的な意味を、アメリカはきわめて重視している。ヘルシンキEU首脳会議の前、ワシントンはヨーロッパ諸国に対してトルコ加盟問題について、97年のルクセンブルクEU首脳会議で示した否定的態度を見直すように求めた。そしてクリントン政権はギリシャとトルコが歩み寄るように圧力をかけた。その一方で、両国へ積極的に武器を売り込んだ。とはいえ、クリントン政権が優遇したのはトルコの側だった。そこには、カスピ海の石油争奪戦とカフカス地方におけるロシアの覇権という戦略的な関心が働いている。とはいうものの、トルコの軍部がEU加盟によって「戦略上の報奨金」を手にするわけではないことは、アメリカも良くわかっている。トルコの軍部はNATO加盟によって、すでに何十年も前に重要な利益を得ているからだ。

 ヘルシンキで道筋の付いたギリシャ・トルコ関係の安定化には、ブリュッセルの姿勢が大きく影響する。EU首脳会議でトルコを加盟候補国として認めた決定は、本気から出てきたのでない限り、トルコ政治に長期的に影響を与えはすまい。もし候補国の地位が巧みな策略にすぎず、実際にヨーロッパに歓迎されてはいないという印象をトルコ政府が抱けば、国内の民主勢力だけでなく、ギリシャ・トルコ両国の関係にとっても大きな敗北となるだろう。なぜなら、結局のところ、トルコの軍部が民主主義や人権、少数民族といった分野に前向きになるかどうかということに、未来はかかっているからだ。

(1) 国際連盟の監視の下、トルコ領内の100万人のギリシャ人と、ギリシャ領内の40万人のトルコ人が交換された。対象者がどの民族に属するかは、宗教だけを基準として決定された。その結果、正調トルコ語を話すアナトリア人、ギリシャ語を話すクレタ島のイスラム教徒、イスラムに改宗したサロニカの東方系ユダヤ人などは、まったく場違いな国に住むことになった。
(2) 「ギリシャとトルコの犬猿の仲 - 地下資源・海路・空域をめぐるエーゲ海紛争」(ル・モンド・ディプロマティーク1996年10月号)参照
(3) アブドゥラ・オジャラン氏はギリシャの過激派によって、ギリシャ政府の目と鼻の先で(とはいえ、情報部は周知の上で)ロシアからアテネへ移送された。パンガロス外相はこの厄介な人物を密かに追い出そうと試みて、ポストを失うことになった。
(4) パンガロス氏は辞任後、ヘルシンキ首脳会議の際にトルコがEU加盟候補国の地位を獲得するのに同意したことについて後任者を非難した。
(5) ヨーロッパ全域を対象とした国際機関で、人権問題が活動の中心。EUの一機関ではない。欧州評議会とも呼ばれる。[訳註]
(6) 政治、経済、既存の成果に関わる義務の3分野にわたる。[訳註]
(7) Eleftherotypia (Athenes) 17 April 2000 参照
(8) Eleftherotypia 5 February 2000 別刷り<< Apo misos sto flert(憎悪から接近へ)>> 参照
(9) Ependytis 5-6 June 2000 pp.4-5 および James Pettifer, The Turkish Labyrinth, Ataturk and the New Islam, Penguin, London, 1998, p.62 参照
(10) 特にウェンディ・クリスティアンセン「手詰まり状態のトルコ政治」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年2月号)参照


(2000年6月号)

* 本文中、「スラーキ」を「トラキア」に訂正(2000年12月6日)

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