不当な土地再分配に隠されたジンバブエの戦い

クリストフ・シャンパン(Christophe Champin)
ラジオ・フランス・アンテルナショナル記者

訳・清水眞理子

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 与党敗北の可能性もある総選挙を目前に、ジンバブエは前代未聞の危機に瀕している。ムガベ大統領は就任後初めて力のある野党勢力の台頭にあい、権力の座を守るために、豊かな土地を所有する数千人の白人農園主を攻撃するという一か八かの勝負に出ている。しかしこの戦略は、国家の安定を先々にわたって揺さぶり、近隣諸国の不安をますます煽ることになるかもしれない。[訳出]

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 彼らの主張は一見すると正義にかなっているかに見える。2000年2月以来、ジンバブエの退役軍人が白人所有の肥沃な農園を占拠している。彼らは独立戦争当時、人種差別に反対して戦った。その主要目標が土地の奪回にあったにもかかわらず、肥沃な土地の大半は今でも白人所有である。かつてローデシアと呼ばれた国で、4500カ所の白人農園のうち1000あまりが数週間で、時に死者を出すほどの暴力をもって占拠された。

 しかし、これは「退役軍人」だけの暴挙ではない。彼らは最近人気に陰りが出てきたムガベ大統領の後押しを受けている。すでに20年も大統領の地位にあり、四方八方から批判を浴びているムガベは、形勢不利が伝えられる総選挙に向けて、白人所有の土地の接収を争点として打ち出したのだ。

 それを契機に起こった数々の暴挙によって、独立以来かろうじて保たれていた人種間の均衡は砕かれ、この国の経済、社会の危機的状況がさらに深まっている。こういった状況は特に近隣諸国やカウンターパートに不安を与えている。南部アフリカ第2の大国であるジンバブエが瓦解すれば恐ろしいことになる。この危機は南アフリカからも注視されている。南アフリカの場合、大規模な農地改革は必至となろうが、まだ具体的な検討課題にはなっていない状況にある(1)

 ジンバブエが、南部アフリカという傷だらけの地域の中で輝いて見えた時代は、そう昔のことではない。独立を達成した1980年4月の「ローデシア」は、何かと問題の多かった南部アフリカで平和裏に政権が移譲された最初の国の一つであった。南アフリカと、その植民地にすぎなかったナミビアは、アパルトヘイト体制下にあった。モザンビークとアンゴラは冷戦に絡めとられ、血塗られた内戦によって引き裂かれた。そしてザンビアは銅の国際価格の下落で経済危機の深みにはまりこんだ。

 79年12月、白人のスミス首相と黒人ゲリラ側のムガベ、ヌコモ両氏の間で、黒人多数派政権樹立を認めるランカスター協定が締結されたことは、同じように困難な状況の中にあって驚くべき成功として受け止められた。もう一つの成果は、体制の変化が経済の崩壊につながらなかったことであった。「FRELIMO(モザンビーク解放戦線)による革命政策の急展開の結果を見たジンバブエの黒人指導者は、モザンビーク流社会主義が強調する国有化と経済改革や独特のレトリックが、白人の逃避と経済の不安定を招くだろうということを察知した」と、アメリカの政治学者ジェフリー・ハーブストは記している(2)。黒人指導者は、ランカスター協定に基づく憲法に私有財産の保護、とりわけ土地所有の保護を認める条文をもりこみ、この基本法の修正を7年間は禁止することを受け入れた。その結果、経営者たちは安心し、出国する白人は一部にとどまった。

独立当時に先送りした課題

 妥協は重大であった。農民のほとんど黒人であり、彼らの第一の願いは奪われていた土地の再分配にあったからである。この妥協は、ジンバブエ・アフリカ国民同盟−愛国戦線(ZANU−PF)の指導者であり、後に首相となったムガベの掲げるマルクス主義的思想にも反していた。しかしムガベは、後の南アフリカのマンデラのように現実主義をとり、活力ある民間部門の混乱を避けるには土地問題は徐々に処理していった方がよいと考えた(3)。そして、スミス政権下では多くのアフリカ人に無縁であった教育、保健の分野に力が入れられた。

 アパルトヘイトが原因で国際社会から孤立していた南アフリカに比べ、ジンバブエは独立後の10年間、対外的に優れたイメージを築き、南部アフリカの重要国の地位を占めた。政治面を見ると、87年の憲法改正で大統領になったムガベが、民主主義者であったためしはなかった。彼は独立直後に、ライバルであるヌコモ率いるジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)の反乱を血をもって弾圧した。しかし、そこで抜け目なく、ZAPUをZANU−PFと統合することで「勇者の和平」の体裁をつくってみせた。

 南部アフリカの他の国に比べ、ジンバブエは白人から黒人への政権移譲がスムーズに行われた国の代表例とされていた。当時、多くの識者が、南アフリカの白人政権はジンバブエの例に学ぶべきであると考えていた。

 だが、間もなく「ジンバブエ・モデル」の限界が露呈された。90年代初頭、経済に息切れの兆候があらわれた。ジンバブエ政府は91年以降、すでに他の多くのアフリカ諸国で行われていた構造調整の流れに従わざるを得なかった。それまで国際通貨基金(IMF)の方針に断固反対の立場をとっていたムガベ大統領にとって、これは気の重い決断であった。それまで大した進展のなかった土地再分配の問題が再燃しつつあった時期に、国民に受けの悪い政策を取らないわけにいかなくなってしまった。

 およそ4500人の白人農場主が耕地の中でも特に肥沃な3分の1を所有し、広大な農地で商品作物を栽培していた。その一方、黒人農民の70万世帯が残りの「居住区の土地」、つまりあまり耕作に適さない土地を分け合っていた。この頃から、貧しい農民や農村の若者による白人農園の占拠が始まった。当時ムガベ大統領は、彼らを後押しすることが有益であるとは考えていなかった。彼は対策として農地改革の推進を決定した。独立時に一応は着手されたといっても、その後の10年で対象とされた16万2000世帯のうちで恩恵を受けたのは6万2000世帯にとどまっていた。

 それ以降ムガベ大統領は絶えず黒人農民に「(革命の)偉大なる夕べ」を説きながらも、ある時は白人を激しく攻撃し、ある時は白人ジンバブエ人に安心感を与えるような二枚舌を使い分けた。92年2月、政府が固定価格で農地を一方的に接収できるという法案が国会で可決された。しかし、白人農場主が大半を占める商業農場主組合(CFU)と援助国の反対を前に、この法案は尻すぼみにならざるを得なかった。93年ついに70カ所の土地再分配計画の第一弾が始まったが、その恩恵を受けたのは土地なし農民ではなく、閣僚や権力に近い人物であった。

高まる社会不満

 とはいえ、96年3月の大統領選挙では有力対抗馬も見当たらず、ムガベ大統領が三たび勝利をおさめた。しかし31.7%という投票率の低さは、ジンバブエ国民の倦怠感を如実に表していた。96年8月、給与引上げを求める公務員が初めて大規模なデモを行い、行政窓口や政府機関のストライキが連発して国は麻痺し、老大統領とうら若き秘書のグレース・マルフ嬢の再婚の豪勢な披露宴に水をさした。

 さらに次の年、退役軍人に支給される年金を政府高官が横領した事実が発覚し、これが最後の引き金を引いた。それまで体制寄りと見られていた元ゲリラ兵は1カ月以上デモを行い、支払われるべき給付金を求めて大統領官邸を攻囲した。追いつめられた大統領は、彼らの意に沿う例外措置を発表せざるを得なかった。しかし、それで解決された問題は氷山の一角にすぎなかった。

 生活水準の低下が続くジンバブエを次に見舞ったのは、独立以来の広範な社会運動だった。98年8月、ウガンダとルワンダの支援を受けた反政府軍に苦慮するコンゴ(旧ザイール)のカビラ大統領を助けるためにまず6000人、ついで1万1000人が出兵されたことで、社会の不満は高まった。一日あたり100万ドルかかる軍事介入に労働組合は憤激し、行動を激化させた。さらに数カ月後、これを後押しするようなIMFの非難声明が公表された。ジンバブエ当局は資金借入れのため、軍事支出に関して虚偽の報告をしたというのである。

 このような一連の反抗のうねりは、与党ZANU-PFに対抗する初の有力野党の出現を許すことになる。ジンバブエ労働同盟(ZCTU)の書記長を務めるツヴァンギライ率いる、民主変革運動(MDC)がそれである。この新党は結成されて1年足らずであるが、すでに今年2月に憲法改正を問う国民投票を否決に導くという勝利をおさめている。それまで一度たりとも有権者から否定されたことがなかったムガベ大統領には痛烈な敗北であった。さらに、大統領が国民投票にかけた提案には土地の補償なき接収がもりこまれていた。つまり、もはや土地再分配問題はジンバブエ国民の基本的関心事ではない。あるいは、大多数の国民は農地改革を実施するという現大統領の言葉を信用しなくなっている。

 野党勢力はこの成果に自信を持ち、5月に予定された総選挙(4)で勝てると期待している。しかしムガベは、自身も公言しているように、野党勝利を阻止するためにあらゆる手を尽くすつもりでいる。大統領は農村地域ではなお支持を得られることを自覚しており、白人農地占拠を後押ししてきた。そもそも彼が指揮をとっているという説もある。また一方で彼は、数週間前の国民投票で否決された接収に関する憲法修正案を、国会で可決させている。

 これと平行して、総選挙で不正が行われると予測する野党の活動家に対する脅迫が頻発している。普段なるべく目立たないようにしている白人が公然とMDC支持を表明してからというもの、与党は野党指導者が「白人の人種差別主義者」と共謀していると非難している。独立当時には残留を決めた白人も出国し始めた。この状況は、ジンバブエのカウンターパートを不安に陥れている。彼らの大部分はジンバブエ政府との関係を一時見合わせ、自由で公正な選挙の実施を求め、大統領が事態を鎮静化させるのを待っている。ともかくも、今回の危機で「ジンバブエ・モデル」の名残りは、もはや完全に葬り去られてしまった。

(1) ル・モンド・ディプロマティーク1999年3月号参照
(2) Jeffrey Herbst, State Politics in Zimbabwe, University of Zimbabwe Publicatons, Harare, 1990.
(3) 新生独立国家は生産性の高い農業、発展した製造業、有力な鉱工業を受け継いだが、完全に少数の白人に支配されていた。
(4) 5月下旬の時点では6月末に延期された模様。[訳注]


(2000年5月号)

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