中欧の歴史に学ぶ属人的文化自治論

イヴ・プラスロー(Yves Plasseraud)
法学博士、少数民族の権利擁護連合(パリ)会長

訳・萩谷良

line

 複数の民族が錯綜した形で共存するという事態は、いつの時代にも見られたことであるが、20世紀が終わろうとしている今日、それがいっそう際だっている。膨大な数の難民、強制移住させられた人々や、移民労働者が世界中に散らばり、民族や文化を原因とした紛糾が、もはや数え切れないほど生まれている。こうした状況では、たとい最低限の文化的権利ですら、全ての人々に保障しようと政治家が主張するのは、仮に本気で言っているとしても、しだいに非現実的になりつつある。とりわけ、他の民族の狭間で暮らす人々に対し、彼らの母語で教育を受ける機会を提供するのは難しい問題となる。

 そうした企てがいかに困難であるかは、数年前のボスニアの例からも分かる。ボスニア統治の構想はことごとく、「小郡分割」と呼ばれる方式も含めて、この地域に散在する諸民族の現状にうまく重なり合うものではなかった。この種の問題をめぐっては、昔からさまざまな見解があった。それらのいくつかを改めて検討してみることは無意味ではない。それというのも、各個人がどこに住むかにかかわりなく属人的身分をもつという概念は、きわめて古くからあるからだ。

 中欧では、5世紀に度々起こった大規模な侵入ののち(1)、新参のゲルマン民族のもつ慣習法がローマ法と共存する状態が数世紀にわたって続いた。次いで、諸々の集団が定住するに従い、私法が統一されるに至った。法の属人性という考え方は、いくつかの特に独自性の高い集団に認められた自治制度の形で、かなり後世まで存続した。例えば、トランシルヴァニア(現在のルーマニアに含まれる部分)のサクソン人は、1486年にハンガリー王マーチャーシュ1世コルウィヌスのもとで、「民族」としての自治を獲得した。そして、三つの民族の連合(unio trium nationorum)に基礎をおくトランシルヴァニア憲法が制定された(2)

 中世末期の欧州では、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人にしばしば保護を与えていた。ただし、これは予告なく撤回もされるものだった。アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特徴をよく示している。ヴィースラ川の王国(ポーランド王国)にやってきたユダヤ人は、祖国で享受していたものと同等とされる特典をいくつか与えられた。1264年にカリーシュのボレスワフ公が、マグデブルクの勅令(3)を範として彼らに与えた身分は、その典型であり、後代に各地で模倣された。

 この制度のもと、ユダヤ人社会は、その宗教と「民族的出自」ゆえに、特殊な社会集団としてコミューン(ヘブライ語で「ケヒラ」)を組織し、内部自治を行うことが認められていた。ユダヤの人間と財産は君主の所有物(servi camerae)であるとされ、これを害するものは君主の財産を害するものと見なされた。

 1334年、ポーランド王カジミエシュ三世(カジミエシュ大王)により、この制度は王国全体に広められた。1388年には、リトアニア王ヴィータウタス(4)もそれに倣った。この移民誘致策に下心がないということはなく、「庇護民」を搾取するのは当たり前となっていた。それが高度に磨かれると「海綿しぼり法」が用いられる。表向きは、気前よく特典と保証をふるまって、他国で迫害されているユダヤ人を引き寄せる。彼らが十分に繁栄し、金を蓄えたころを見はからって、国外に追放し、財産と利権を取り上げる。そして、またユダヤ人たちに、戻ってきて、剥奪された財産と特典を買い戻さないかと持ちかけるのだ・・・。

 宗教上の少数民族の処遇について、また別の対応の例が、オスマン・トルコのミッレト制度(イスラム教以外の宗教を奉ずる在留民の共同体)に見られる。宗教と市民社会が不可分なイスラム世界にあって、西洋列強からひたすら圧力をかけられたコンスタンチノープルは、非イスラム教徒とはいえ「啓典の民」に属する居住者がよしとするような制度を考案しないわけにいかなかった。イスラム教徒がコーランの律法に従って、どこへ移住しようと変わることのない属人的身分をもっていた以上、イスラムの庇護民「ズィンミー」にも同様の身分が認められてしかるべきだった。「カピチュレーション」と呼ばれていた制度を通じて特権身分を得たキリスト教徒は、特に18世紀以降、西欧諸国家の監視下で運用された特異な法制を大いに活用した。

 話を中欧に戻して、1848年の諸革命の文脈の中で、「ハンガリーのトックヴィル」と呼ばれたヨージェフ・エトヴェシュ(1813〜71)の見解を検討しよう。この啓蒙派の男爵は、1848年のハンガリー民主政府の閣僚であり、その後1867年のオーストリア・ハンガリー帝国形成の「妥協」を推進した中心人物となる。彼は、民族国家の原則を実際に適用した点にかけては西欧思想の先駆者であり、属人的自治制度を考え出した最初の人物、あるいは少なくとも最初の人物の一人である。

 彼は『諸民族の問題』(1856年)において、宗教と民族性との連関を示しつつ、ある(言語によって規定される)民族に属するということを、純粋に個人的な主体的権利と見なしている。しかし、当時の時代的文脈の中に身をおいていたエトヴェシュは、国家の世俗化を主張するにとどまり、その認識にもとづく憲法体系を提案するまでには至らなかった。この思想が実際の政治につながっていくのは、もう少し後、オーストリアの首都ウィーンにおいてであった。

階級か、民族か

 カール・マルクスにとって、そしてフリードリヒ・エンゲルスにとってはさらに(5)、民族という問題は、階級の問題に比べて意義が薄いものとなる。民族は、資本主義の発展の所与の段階に対応する一過性の集団とされ、世界のプロレタリアの歴史的な利害関心に従うほかはない。何といっても、プロレタリアは祖国を持たないのだから。

 マルクス主義の創始者たちは、このような信念をもっていたとはいえ、まったく民族問題をかえりみないわけではなかった。ただ、彼らがそれを考慮に入れたのはきわめてプラグマチックな視点からであり、諸民族の解放闘争に何かしらの意義があるとすれば、大衆意識の覚醒に役立つというほどのものでしかなかった。彼らは、「将来性がある」大きな「国民国家」と、チェコやブルターニュやバルトのように、いずれ消え去る運命にある小さな「非歴史的民族」(Geschichtslose Nationen)とを区別していた。革命の諸条件が生まれるためには、統一された資本主義市場の形成が前提となるがゆえに、中欧の大きな国家群(その筆頭がドイツ)の存在は、まったく好都合と見られていた。

 とはいえ、戦術的目標を「反動の巣」、特にロシア帝国と大英帝国を破壊することにおいていた以上、マルクスとエンゲルスが、ロシアの「小さな」ナショナリズム(ポーランド、バルト諸国)の支持に回ることも少なからずあった。エンゲルスは19世紀末頃には、民族単位の自治、さらには独立が、しばしば、有効な革命行動の前提となることを認めるようになった。この見解が、理論上の曖昧さを残しながらも、1889年にパリに設立された第二インターナショナルでも採り入れられていった。

 複数民族から成る帝国で、ドナウ川流域の知的に自由な風土に育ったオーストリア・ハンガリーの社会主義者は、社会問題と民族問題の関係にかけては、最も早くから研究を深めていた。当時すでに「我が国の全ての人民は権利において平等であり、各人民は、その民族性と言語を涵養する譲渡不能の権利を有する(6)」と第19条に定めた帝国基本法(1849年の草案にもとづいて策定)のもと、オーストリア・マルクス主義者たちは、ごく早くから、この問題について、独自の取り組みを進めていた。

 1887年、民族問題に関する理論の集成に初めて取り組んだ社会民主主義者が、オーストリアのカール・カウツキー(1854〜1938)だった。彼は、マルクス主義の「父たち」とは異なり、英国での見聞を中心としてテーゼを組み立て、国際主義一本槍と民族独立支持の中間を行くという、プラグマチックな路線をとった。しかし、この分野で最も傑出した人物といえば、やはり、カール・レンナーとオットー・バウアーである。

 モラヴィアの法律家であるカール・レンナー(1870〜1950)は、民族に重要な位置を与えており、諸民族が教会に比して、二重の君主制のもとで固有の法的地位をなんら認められず、政党を組織するほかないことを慨嘆している。そして、当時の主流だった「中央集権的原子論」(7)に背を向けて、帝国を可能な限り民族的境界に即した諸州に分割し、各州においては、支配的な民族集団が言語に関して他に優先されるようにすることを提案した。

 「諸民族の内部的配分は、当然ながら人口密度に応じてなされるべきだろう」とレンナーは強調する。「各地の司教区内あるいは行政区内の同一民族は、ひとつの民族共同体を構成する。これは公法上および私法上の社団とされ、規則発令と徴税の権利をもち、独自の予算を運営する。地理的位置と文化を基準とした所定数の民族共同体の集合は、同様の権利を備えた社団である民族地区を構成する。これらの地区の総体が民族であり、同じく公法上および私法上の主体となる(8)」。この複数民族連合国家(Nationalitatenbundesstaat)の枠内において、少数民族は、個人から成る「民族結社」に組織され、「文化面での非領土的で属人的な自治」を享受するとされる(9)

 社会学者オットー・バウアー(1880〜1938)は、レンナーの言語決定主義を排除しつつ、この制度を「歴史なき民族」、さらには故郷なきプロレタリアにまで広く適用しようとした。彼はとりわけ、労働者大衆の国内移動によって生じる「少数民族労働者」の文化に強い関心を示し、あらゆる同化強制政策に反対している。とはいえ、レンナーと同様、「分離主義」とははっきりと一線を画している。特に、チェコ人とユダヤ人に対しては批判的な目を向け、労働者階級の団結に逆らう反同化主義イデオロギーを広めるものと見なした。

 レーニンは、民族解放闘争を展開する帝国内諸民族のプロレタリアと、ロシア人プロレタリアとを融和させることにも関心はもっていたものの、「自分の足元しか見ない」態度への断固とした反対を社会主義インターナショナルの席で示した(10)。1898年のロシア社会民主労働者党(RSDRP)大会で、彼は少数民族の自決権を認めつつも、のちにメンシェビキとなる少数民族の文化自治支持派(11)と対立している。ボリシェビキとメンシェビキの決裂が明らかとなった1903年の党大会(12)で、レーニンは、非領土主義者の希望を打ち砕き、党の基本原則として領土的自決権の原則(第9項)を採択させることになる(13)

ロシアのユダヤ人社会主義者たち

 都市に生まれたユダヤ人労働者の政治意識は、1890年代まで、周囲に広まっていた人種差別に対する反発として、また、支持者を増やしつつあったシオニズムへの反応として、発展をみた。当時の目標は、ユダヤ人労働者が「正常」な社会的諸権利を獲得することにおかれていた。しかし、じきに一部の人々は、この同化主義的な夢想をユートピア的であると非難するようになった。そのような問題点は、1894年以降、マルトフ(ユーリ・O・ツェデルバウム)によって明らかにされた。東欧諸国ユダヤ世界の生産関係が、真の労働者階級(14)を擁する完全な社会構造を決して生み出し得ないものである以上、ユダヤ人は社会的闘争と民族解放闘争を並行して進めなければならないと、彼は結論する。 

 革命的状況をどのようにして作るべきかをめぐり、二つのテーゼが対立していた。「領土主義者」にとっては、民族の領土が存在すること、つまり民族が自決してユダヤ人国家を創設することが、条件として求められる。ブンド(在リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)派をはじめとする「非領土主義者」は、「歴史なき民族」が錯綜した東欧の状況と、ユダヤ人たちが大挙して出国する見込みは薄いという事実とをあげて、領土性にもとづいた仮説を非現実的であるとする。ユダヤ人にとって、民族性は言語および文化と切り離せないものであり、1905年(第6回RSDRP大会)以降、その方向で議論が進められるようになる。ユダヤ人にとっては文化が領土にしばられない祖国となり、東欧ユダヤ人の大衆言語であるイディッシュ語が民族闘争の原動力となるとされた。

 非領土主義的な文化自治というオーストリア・マルクス主義の理論が、法律的な解決策を提供してくれるように思われた。ところが、残念ながら、レンナー自身が、彼の提案した制度はディアスポラ(離散ユダヤ人)にも散在的な少数民族にも適しないと述べている。したがって、レンナーの理論を「イディッシュランド」に適合するように修正する必要が生じる。この問題の考察に取り組んだブンドとSERP(ユダヤ人社会主義労働者党)の指導者(15)は、複数民族政党を創設し、諸民族のRSDRPを連合させることを主張した。他の組織、特に、アルメニア社会民主主義労働機関も、この方向で闘争していた。ブンド指導者にとって、ロシアはオーストリア・ハンガリー帝国に倣い、自治を行う諸民族の連邦となるべきであったが、この自治は、複数民族混住地域にのみ関わるものであった。

 ブンドその他のユダヤ人の戦闘的な運動団体は、ポアレ・シオン(ユダヤ人労働者社会主義民主党)やSERPのように「領土主義」を掲げているか否かにかかわらず、ナショナリズムを基盤としていたため、インターナショナルの幹部には疑いの目で見られることになる。その代わり、下部からはどちらかといえば好感を持って迎えられた。彼らの主張が事実上、ケヒラ内部での何世紀にもわたる自治によって鍛えられた宗教的、社会的文化にもとづいていたからだ。そして、ロシアのユダヤ人社会主義者によるオーストリア・マルクス主義への根本的な理論的貢献も、この点にあると言えるだろう。まさに、オーストリア・マルクス主義者が顧慮しなかったこの種の要素があるからこそ、ユダヤ人共同体へ属人的自治の原則が適用できるはずだった。

 1916年、ウラジーミル・メデムは、オーストリア・マルクス主義の業績にシモン・ドゥブノフの「ロシア的」貢献を組み込んで、総合的なブンド理論を作り上げた。「複数の民族、例えば、ポーランド人、リトアニア人、ユダヤ人などで構成されている国を例にとろう。これらの民族の各々が、別個の運動団体を創設することになる。特定の民族に属する市民はすべて、ある特別な組織に加盟する。この組織は、各地における文化議会と、全国レベルの文化総議会を組織する。これらの特別議会は、独自の予算権限をもち、民族ごとの徴税権を付与されるか、国家の一般予算から民族比率に応じた予算配分を受ける。市民各人は、これら民族集団のいずれかに所属するが、その者がどの民族運動団体に加盟するかは、彼の個人的選択によって決まるのであって、その決定に対して、何ぴとも一切の統制を加えてはならない。これらの自治運動団体は、国会の制定する一般法の枠内で展開されるが、その独自の領域においては自治権をもち、相互の問題に介入してはならない(16)

 このようにして、メデムは、それまでの伝統であった国家と民族の混同に背を向け、複数民族混住地域では社会的機関の自治にもとづいた民族連邦主義をとることを提唱した。彼は、ロシアをいくつかの「民族結社」に分割し、そこに個人がそれぞれの自由な選択にもとづいて集合するという制度を構想した。そして、散在する諸民族集団が「民族台帳」にもとづいて自主的に組織され、「公法上の社団」として、諸々の機関と権限を付与された法人となることを考えた。

 こうして、民族的帰属が「主体公法」レベルに格上げされ、民族それ自体が「公法上の法人」となる。この複数民族国家(フランスの法学教授ステファン=ピエレ・カプスはこれを multination と呼んだ(17))は、連邦主義の通常の原則にもとづき、依然として防衛、外交、経済および財政を担当する。民族内務(実際は主として文化関連)の運営については、「民族社団」の専権とされる。

 民族的に均質な地域に関しては、属人的連邦の理論家は、国家行政と民族行政の一致(領土的自決の原則)のもとに単一の地区評議会をおくという古典的な考えに立ち戻る。このような属人的連邦主義と領土的連邦主義の混合にこそ、本稿で検討される諸々の原則の独自性がある。

 1925年以降、ドイツ系バルト人パウル・シーマン(1876〜1944)など多数の重要人物が、欧州民族会議(国際連盟の協調機関)の場で熱心に文化自治を説くようになる。それは大きな進歩を見せたが、1933年からナショナリズム(修正主義)が台頭すると、少数民族の権利獲得に向けた一切の希望は潰えてしまった(18)

両大戦間のバルト諸国で

 属人的自治に批判的な向きは、それをユートピア主義だと言って糾弾するのがつねだ。しかし、不幸にも忘れられている歴史をたどってみると、この理論が改めて検討するに値することがわかる。ロシアの場合、属人的自治の理念は、帝政時代もボリシェビキの勝利ののちも完全に消し去られてしまった。逆にオーストリアでは、オーストリア・マルクス主義思想は右翼の間にすら支持者を見いだしていた。彼らの関心は、オーストリア・ハンガリー帝国という長期にわたった奇跡を、いかにして存続させるかにあった。その最後の宰相、ハインリヒ・ラマシュ自身もまた、諸民族の自由な結社の原則を認めることでしか、帝国は存続できないと考えていた。

 第一次大戦以前にも、いくつかの萌芽的な実施例はあった。例えば1905〜1906年に、属人的な自治制度が、モラヴィアで部分的に導入された。ここでは、ブルノの議会に送られる2人の評議員を民族別(ドイツ、チェコ)に選出すべく、民族選挙者台帳が作られた。この制度は満足のいくものだったので、のちに教育の分野にも拡張されていく。

 次いで1910年に、ブコヴィーナ(19)のドイツ系、ユダヤ系、ポーランド系、ルーマニア系、およびルテニア系(20)住民の間で文化自治が実験され、これも成功を収めた。1914年には、ガリツィア(ポーランド)にも導入されたが、大戦の勃発によって挫折することになる。しかし、大戦後には復活の動きが起こる。1918年1月3日、短命に終わったウクライナ中央ラーダ(議会)が、ユダヤ系、ポーランド系、ロシア系の住民に対して属人的自治を承認し(ここには、シオニスト左派政党のポアレ・シオンとその指導者、ベル・ボロホフの影響が認められる)、ベラ・クーン政権下のハンガリー共和国評議会は、ドイツ問題委員会を設置した。同様の構想は、ハンガリー代表団が1920年2月20日の講和会議で、ドナウの帝国の不可避の分割による損傷を抑える目的で示した草案のうちにも見いだされる。

 両大戦間には、バルト諸国で最も興味深い事例が展開された。まず第一は、リトアニアである。この新生国家がおかれていた混乱の時期に、以前からあったケヒラが、1920年10月21日法により、属人的自治の原則にしたがって自主的に組織することが認められた。この方式は、不幸にして、1926年にカウナスに権威主義的な政権が樹立されたために、消滅を余儀なくされた(21)

 この同じ原則は、ドイツ系の偉大な論説家で政治家のパウル・シーマンも、今世紀初めにリガ(ラトヴィア)で唱えている。彼もまた、オーストリア・マルクス主義者と同じく、かつて宗教的寛容と政教分離が人々の精神を鎮めていたように、国家と民族を分離すればナショナリズムがなくなるはずだと考えた。そして、ラトヴィアのドイツ人社会を念頭におき、主として上記の原則に立脚しつつ、きわめて完備された行政制度を提案した(22)。彼らは公法上の社団として組織され、文化の分野で自主的な運営を行うものとされた。しかし、国内政局と同国をとりまく国際的状況(ソ連、ナチスドイツ)が変わったため、この制度は日の目を見ることがなかった(23)

 属人的な文化自治の、完全で実用的な制度を創設し、運用した功労を認められるのは、バルトの第三の共和国、エストニアである。地域レベルで集まって、各民族の中央文化評議会を国家レベルの代表に立てることを望んだ少数民族は、1925年2月12日法によって実際にそうすることを認められた。ユダヤ人の場合、この制度の適用を受けるために必要な員数は3000人と定められた。

 エストニアの制度には独特な点があった。エストニア人もまた、彼らの方が少ない地域では、この原則による自主組織を認められたのだ。この法律の生みの親の一人、エヴァルト・アメンデ博士も、欧州民族会議の創設に係わっている。この制度の実施は、ドイツ人とユダヤ人にとっては満足のいくものだった。しかし、残念なことに、同法の起草者の一人であったミハイル・アナトリエヴィッチ・クルシンスキー教授の多大の努力もむなしく、ロシア人がその適用を受けるほどに組織されたことは一度もなかった(24)

 属人的自治ほど豊かな概念が、現代政治からかくも忘れ去られているかに見えるのはなぜかと、疑問に思ってもよいだろう。答えは単純である。この概念は、中欧で生まれたがゆえに、第一次大戦後にはソ連式の「現実の社会主義」に覆いつくされてしまったのだ。西側諸国では、少数民族という問題は人権問題の陰に隠れてしまい、翻訳されていない資料の中を探ってみようとする者もめったになかった(25)。しかし、カフカスからボスニアにかけての近年の事態を見るに、散在する少数民族に関する諸理論は、再び大いにアクチュアルなものとなろうとしている。

(1) ビボ・イシュトヴァン『中欧小民族の歴史』(アルバン・ミシェル社、パリ、1993年)
(2) 他の二つの民族は、ハンガリー人とセーケイ人(ルーマニアの重要な少数民族で、セクレル人とも呼ばれる)である。
(3) このザクセン・アンハルト(旧東独)の都市は、962年にスラヴ諸国向けの布教のための大司教区となった。1188年の勅令は、ユダヤ人に一連の特権を与えて、彼らの身分を定めた。
(4) ポーランドの「市民社会」制度全般については、イェジー・クロチョフスキ「ポーランドおよびポーランド・リトアニア・ルテニア共和国内の市民権の伝統」(シャンタル・デルソル、ミシェル・マスロフスキ『中欧政治思想史』所収、PUF、パリ、1998年)229ページ以下を参照。
(5) とくにジョルジュ・ハウプト、ミヒャエル・レヴィ、クローディ・ヴェーユ『マルクス主義者と民族問題−1848年から1914年まで』(ラルマタン社、パリ、1997年)参照
(6) 二重君主制のもとでの民族の処遇についてはジャン=ポール・ブレ「オーストリア・ハンガリー−民族多元主義のひとつのモデル」(アンドレ・リービッシュ、アンドレ・レスレール『中欧とその少数民族−全欧州的解決に向けて』所収、PUF、パリ、1993年)25ページ以下を参照。
(7) フランスのように、個人がそれぞれ別々に国家に相対する制度。
(8) クローディ・ヴェーユ『インターナショナルと他者−東欧における民族間関係』(アルカンテール社、パリ、1987年)94ページ
(9) この思想は、既に1889年にブルノの会議で、スロヴェニア人クリスタン・エトビンによって述べられていた。そのはるか後の1918年になって、オーストリア共和国初代首相となったレンナーが、著名な法学者ハンス・ケルゼンに、この原則にもとづく憲法の起草を命じたが、未完に終わった。
(10) このテーマについては、アンドレアス・カプレール『ロシア、多民族帝国』(スラヴ研究所、パリ、1994年)を参照。
(11) レーニンのもとに結集したボリシェビキと対立して、メンシェビキは二段階の革命を推奨した。まず、社会民主主義が帝政の崩壊を促進し、革命を招来し、社会主義運動を合法的に導入する。次いで、西欧の組合、団体、地域機関に範をとったインフラストラクチャーが、労働者階級を教育し、社会主義革命の達成に必要な大衆意識へと導く。
(12) ブンド派の多数がこのときメンシェビキ側に移った。
(13) オーストリア・マルクス主義者全体の問題については、ジョルジュ・ハウプト、ミヒャエル・レヴィ、クローディ・ヴェーユ前掲書。
(14) これの代わりに、受動的で盲従的なルンペンプロレタリアが増加した。
(15) 1904年、ウラジーミル・メデムは、彼の基本的な著作『社会民主主義と民族問題』を公にしている。したがって、これは、オットー・バウアーの有名な『民族の問題と社会民主主義』(1907年)に先駆けているのである。
(16) アンリ・ミンセル『ブンド概史』(オーストラル社、パリ、1995年)279〜280ページ
(17) ステファン・ピエレ=カプス『多民族−中東欧の少数民族の未来』(オディール・ジャコブ社、パリ、1995年)
(18) Jozsef Galantai, Trianon and the Protection of Minorities, Corvina, Budapest, 1992, p.119 et seq.
(19) ルーマニア北部地域。1910年にはオーストリア領。両大戦間はウクライナ、ルーマニア、オーストリアの間で分割され、現在はウクライナ領とルーマニア領にまたがっている。
(20) 西欧に住むウクライナ語族。ルテニアの地はハンガリー、次いでチェコスロヴァキア領となり(1919年)、再びハンガリー領となった(1938年)のち、最後はソ連領となった(1945年)。
(21) Cf. Michael Garleff, << Die kurturelle Serbstverwaltung des nationalen Minderheiten in den baltischen Staaten >>(バルト諸国の少数民族における文化自治), in Boris Meissner, Die Baltische Nationen, Estland, Lettland, Litauen(バルト諸国−エストニア、ラトヴィア、リトアニア), Markus, Koln, 1991, p.87 et seq.
(22) Anders Henriksson, The Tsars Loyal Germans. The Riga German Community. Social Changes and the Nationality Question. Colombia University Press, New York, 1983.
(23) この点については、H. Kause, << Die Balten und ihre Zeitgeschicte: Zu Schiemanns 100. Geburtsag am 29 Marz 1976 >>(バルト諸国民とその現代史−シーマン生誕100年に寄せて−1976年3月29日の誕生日に), in Jahrbuch des Baltischen Deutschtums 1976(バルト諸国ドイツ民族年鑑1976年), Luneburg (1975) および、ブラッドフォード大学バルト研究班のジョン・ハイドンの仕事(未公刊)を参照。
(24) David Smith, Retracing Estonia's Russians: Mikhail Kurchinskii and Interwar Cultural Autonomy, Nationalities Papers, Vol. 27, No. 3, September 1999, p. 445 et seq.
(25) クローディ・ヴェーユのように多言語に通じた希な例は別である。


(2000年5月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Hagitani Ryo + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)