ジャーナリズム社会学

アラン・アカルド(Alain Accardo)
ボルドー第三大学社会学科講師

訳・渡部由紀子

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 メディアの論調は、なぜ、現行秩序の正当化に走りがちで、この社会システムの永続に欠かせない支えとなっているように見えるのだろうか。別に陰謀が働いているわけではない。何か示し合わせているようにも思いにくい。ジャーナリストが採用され、支配階級のイデオロギーに染まっていく過程で、同じような発想をする共同体がはぐくまれるのである。ジャーナリストは、おおむね「感じるがまま」に働きさえすれば、「あるべき姿」でいることができる。それはつまり、あらざるべき姿に他ならないだろう。[訳出]

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 メディアのシステムを観察するならば、何もジャーナリストたちが株主の利益を最優先するあまり、手練手管を用いて公衆を操作しようとしているわけではないことを、原則として認めるべきだろう。もし彼らが受け手を「誘導する者」として振る舞っているとしても、はっきりした意図に基づいているというより、彼ら自身もまた、その大半が疑念を持たない程度に、そうするようにと誘導されているからである。各自がやりたいことを自発的にやることにより、あるいはやらないことにより、その他全員に自発的に同調している。ジャーナリストたちは、詩人ロベール・デスノスが語ったペリカンの論理に従っていると言えるだろう。「ペリカンが真っ白な卵を産んだよ/そこから出てきたペリカンも/やっぱり卵は真っ白で」

 メディアの中枢を掌握した銀行家や実業家は、言うべきことや示すべきことをジャーナリストに教え唆す必要はない。彼らに信条を曲げさせたり、宣伝者に仕立てる必要はない。ジャーナリストの誇りが許さないだろう。ジャーナリスト業界には、(特別な状況や場合は別として)自由に仕事をさせた方がよい。さらに正確に言えば、彼らの仕事は万人が認めるジャーナリズム特有の決まり以外、いかなる要請にも、いかなる束縛にも従わないのだという気概を持たせるべきである。彼らの「プロ意識」に委ねるべきなのだ。

 そのためには、「紛れもないプロ」とされる人物、特に、ある世界観についての基本信条を経営陣と共有し、何かにつけて迎合の姿勢を示してやまない者たちに、編集局内の権力を託すべきであり、また、それで十分である。ひとたび上級幹部ポストが思想信条の点で信頼できるプロによって占められれば、あとは後継者選任のメカニズムを回らせておけばよい。そうすれば、よくある例に従って、キツネを鶏小屋に、異端者をミサに紛れ込ませるような人事をおおむね避けることができる。このメカニズムはジャーナリスト養成校の入学時から働き始め、編集局内へと続く。メディアはこうして、「感じるがまま」に働きさえすれば「あるべき姿」でいることができる人々のネットワークによって、しっかりと掌握される。「あるべき姿」とはつまり、支配的モデルの規範や価値観を擁護することであり、この支配的モデルについては、アイデアに煮詰まった右派と理想を欠いた左派との間に合意ができている。

 しかし、このようなシステムが効果を発揮する根底には、そこに精魂を傾ける人々が、時に自分をごまかすこともあるとはいえ、誠意をもって自発的に行動しているという事実がある。ジャーナリストによる報道に対し、人間の精神を画一的思考に押し込めるものであるといった、理にかなった批判や非難は大いにしてよい。しかし、ジャーナリストに対して、もちろん特別な場合は別にして、 できない非難が一つある。彼らが誠実に仕事に当たっていないという非難だ。彼らはシステムの論理をしっかりと内面に組み込んでいるため、この論理が信じろと命じることに自由意志から迎合する。示し合わせたりしなくても、足並みを揃えて行動する。同じような発想をする共同体ができれば、謀議の必要もなくなる。

 彼らの基本信条を要約すると、人間の顔をした資本主義が最終的には良い結果をもたらすと誠実に信じ、その思い込みにイデオロギー的な側面や時代遅れの側面はつゆほどもないと信じているのだ。

 もちろん、社会のあらゆる分野で活動する人々と同様に、ジャーナリストの物の見方には、見通しの良さと無さ、見えているものと見えていないもの、あるいは見誤っているものが混在しているという特徴がある。これらは立場に応じてさまざまな割合で混ざり合う。

 たとえば彼らは、資本主義秩序が打ち立てられた世界各地で、その非人間性の表れを数え切れないほど目撃している。しかし、そこに資本主義と不可分で、その本質にまで通じる特徴を見出すことは拒み、単なる事故として片付ける。彼らは「機能不全」「逸脱」「失態」「異分子」など、たしかに非難に値する側面について語るが、システムの原理そのものまでを問題とすることがなく、この原理については自発的に擁護しようとする。

 このような具合に、彼らは競争原理、収益追求の義務や視聴率、つまり情報が市場の論理によって商品として追求され、取り扱われる「行き過ぎ」には誠意をもって反対する。しかし、同じ論理が、身分の不安定な編集者を大量に生み出し、低賃金、使い捨ての若いジャーナリストを年々増やしており、彼らが経営者に卑劣なやり方で搾取されていることまでは理解できても、多くの上司や同僚にまで搾取されている点は理解に苦しむ。この「機能不全」に関し、以前に30%の基礎控除の維持を主張した時に匹敵するほどのジャーナリストの運動は、これまでまったく展開されていない。また、身分の不安定な職員を大量に雇い入れている公共機関を巻き込んだ1999年の大ストライキの際、この点に触れた論調がまったくと言っていいほど見られなかったことも意味深い。

内面へのシステムの組み込み

 ジャーナリストの世界は他の多くの分野と同様に、客体的欺瞞の一形態と呼ぶべきものと引き換えにしか機能しない。どういう意味かと言えば、象徴秩序の維持への貢献という彼らの仕事の遂行は、そのようなことはしていない、公の利益や共通の利益、真実と正義以外の原則は持っていない、という意識でなければできないということだ。これは偽善や、わざとらしい行為なのだろうか。答えは否である。いかなるシステムも、意図的かつ恒久的な欺瞞によっては機能し得ない。人々が自分のしていることを信じ、個人として、社会の認知するイデオロギーに迎合することが必要なのだ。

 ここで言うイデオロギーは、「万事が金の世の中は素晴らしい。古くさい人間主義なんてぶっ飛ばせ。 リッチになろう。 貧乏人に災いあれ!」と臆面もなく叫ぶものではあり得ない。はっきりと言葉にならなくてもまったくの善意に基づき、人類が幸福になるためには自由主義の教会の内にとどまることが必要であり、その外にはいかなる救いもあり得ないと考えることにある。

 経済の論理が他を制するためには、それが人間の頭や心の中で、哲学、倫理、政治、法律、美学といった相対的に自律性をもったイデオロギーへ変換される必要がある。さもなければ、人間は自分の運命にのしかかる経済の重みを、まったく不当で耐え難い外部的制約、おぞましい「唯物論」であるととらえることだろう。実のところ、システムの本質は、主体の外部にとどまるのではなく、その内部に入り込んで手を加え、個人の諸性向を構造化することにある。そして、システムの活力は、その構成員の明らかに政治的な選択や見解よりも、社会慣習の面、つまり知識、権力、労働、時間との関係の面での対処の仕方や、文化、家庭、教育、スポーツなどの日常習慣の面での好き嫌いから汲み出されている。うまく誘導された精神とは、何はさておき、「時代精神」をそれぞれに体現した精神に他ならない。そして、「時代精神」は、政治的対立や投票行動の超越を自負する。

 このように好都合な仕組みの下、金の主人たちはメディアを買収し、賢明で抜け目なく誠意ある人々を配置することができる。これらの人々は、資本主義の賃金鉄則(1)を、彼らが「近代性」とか「市場民主主義」などと思い思いに呼ぶものの大前提かつ異論の余地なき公理へと変貌させるべく、個人として誘導されているのだ。

 メディアに当てはまる結論は、社会構造の大部分にも当てはまる。その点で、ジャーナリストの小宇宙は、象徴財の生産と普及の場で起きていることを生きたまま観察するのに好都合な空間である。その住民の大半は、中流階級(教育、報道、福祉の分野の知的職業、顧問や管理、説明や代表の仕事など)に属している。このシステムに対して徹底して精魂を傾け、人間性や知性、想像力、寛容や心理分析など、つまり魂の部分を少しばかり吹き込んできた中心的存在が、これらの新しい小ブルジョワ層だった。システムは、第二次世界大戦前も続いていた賃金労働者の野蛮な搾取を脱し、民主主義を望む声の高まりと併存し得る程度に文明的な見かけをもつ形態へと移行するのに、この魂の部分を必要とした。

 資本主義の近代化は、「人材管理」とコミュニケーションの手法の発展にあった。それらの目的は、経営者の横暴をオブラートにくるみ、自らの搾取への従業員の心理的関与を深めることにある。もちろん、この労使協力は物心両面の報酬を伴う。第一に当事者である従業員の生活が保証され、第二に自分が同僚にとって少しは重要で、役に立っているという気持ちが与えられた。この点は見逃せない。しかしながら、それ以上に彼らの労働は、人類の歴史にいくらでも例のある客体的策略として、システムとその主軸である封建制に対して大きな利益をもたらす。彼らは神に仕えていると信じながらも、往々にしてマモン(2)に仕える結果となっている。しかし、彼らはそれを善良な顔つきで、良心に恥じることなく行っている。というのも、後ろめたさを感じさせるような要素は、ほとんど片端から自主検閲にかけられ、姿を変えてしまっているからである。パスカルの言葉を借りれば、彼らの内部には「疑おうとする理性よりも強い信じようとする意志」が存在するのだ。

中流階級の苦悶

 ジャーナリストが職業上、見せ方や知らせ方の技術を習得しているからなのだろうが、この世界を観察すると、他の分野以上にはっきりと見えてくることがある。つまり、実際の在り方や行動が自分たちの思っている通りのものと似ても似つかないという中流階級の客体的欺瞞が、自分たちの重要性に最大限の価値を持たせる演出を、他者を介して自己に絶え間なく施していく行為となっているということだ。

 いかなる社会ゲームも、そのプレイヤーたちが「自分について大仰に語る」ことや、自分や他人をだますことを多少なりと受け入れなければ始まらないというのが真理だとしても、中流階級ではことさら、自分を「芝居」や「映画」に仕立て上げる傾向が強い点は認めなければならない。彼らが自分というものを「ドラマにする」自己陶酔的とも言える性癖は、この階級が社会空間において、支配者と被支配者という社会権力の両極の中間に属している事実に関係する。

 小ブルジョワの特徴はおしなべて、この過少と過多、有と非有の中間という不安定な位置づけに根ざしている。現代の世界では、社会的に認められた価値が一般的に資本の蓄積、特に経済資本の蓄積に正比例する。遠回しに言うところの「最も持たざる者」は、自らの在り方や行動に価値をもたせることなど思いもよらないほど、持っているものがあまりにも少ない。最も恵まれている者は、自分を見世物にして安心を得る必要もないほど、あまりに多くを持っている。

 しかし、こうして果てしなく安心を追い求めても、完全に満足のいく結果はなかなか得られるものではない。概して、両極の中間に位置する小ブルジョワは、自分の占める位置に内在するメリットよりも、上との隔たりに敏感になる。スタンダールはこう書いている。「自分の階級よりも高い階級に上がるのは大仕事だ。この階級はよってたかって、(君の)上昇を妨げようとする」

 そこに、強烈な欲求不満とルサンチマン(怨恨)の源、社会的認知を求める病気の一種の温床がある。これが、エマ・ボヴァリーおよびジュリアン・ソレル(3)症候群という名称にまとめられそうな、無数の実存的苦悶の症例の原因となっている。この苦悶は、構造的にプログラムされ、それゆえ医学療法をまるで受け付けないだけに、和らげるのが難しい。ジャーナリズムの底辺を調査してみると、社会の両極の中間で支配者と被支配者を兼ねていて、喜びと同時にいら立ちも覚え、愛着もあれば憤懣もあり、満ち足りているが苦しくもあるという自らの位置との両義的な関係が、実によく見えてくる。

 この病気から回復するには、現行システムの論理を断ち切るしかないと考えてよい。それは難しい試みとなる。私たちが個人として内面の奥底に組み込んだもの、個別の人間をシステムと「一体化」する骨髄までしみ込んだ関係、肉体的な癒着を、あらためて全面的に問い直さないわけにいかないからだ。このシステムが人々を生み落とし、期待どおりに動かすために誘導する。たとえば、取るに足らない賭けをでっち上げ、人々を苛酷な競争に駆り立てて敵対させる。しかし、そこで賭け金を追い求めて手に入れたとしても、うまく誘導されたという以外、何の証明にもなりはしない。

 中流階級の構成員の大部分は今日に至るまで、一連の社会化の過程も含めた誘導に従って、社会的に上昇する夢や、個人的に成功しようという希望を飽くことなくはぐくもうと試みてきた。さしあたり、こうしたことが展開される世界の不公正を非難する者は多い。しかし、それらの批判的意見は、政治家(あるいは政治屋)の領分や、これにからんだ「左派」への投票にとどまっているため、支配的論理を危機に陥れるにはほど遠く、現行システムを最適に機能させる結果をもたらしている。このシステムは、その本質を再生産するだけでなく、メディアを仲介役として、ほとんど決して本質に及ぶことのない饒舌な公論を、見事なまでに堅持しているのである。

(1) 社会主義者ラサールが唱えた、労働者の賃金は最低限度に抑制されるという資本主義の法則。[訳註]
(2) ユダヤ教、キリスト教の物語に登場する富の化身。[訳註]
(3) エマ・ボヴァリーはフローベール作『ボヴァリー夫人』の主人公。田舎医者に嫁ぐが、夢想家ゆえに現実を受け入れられず、自殺に追い込まれる。ジュリアン・ソレルはスタンダール作『赤と黒』の主人公。貧しい家庭に生まれ、上流社会にのし上がるが、最後は処刑されてしまう。[訳註]


(2000年5月号)

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