万国法律マーケットの得意客たち

ジャン・ド=マイヤール
司法官

訳・安東里佳子

line

 稀少性には価値がある。自由主義思想を信奉する人々は口を揃えてこう説く。それゆえ、稀少性(の徹底的利用)が、あらゆる富の源泉になると言う。そして、経済をうまく回していく基本は、市場で活動する者たちに対し、富をもたらす稀少財にたどりつく道を開放しておけるかにかかっていると結論する。では、何が稀少なのか? 新技術の開発によって隔たりが縮まって、ますます狭まりゆく世界の隅々で、有効活用できるような稀少性の「ニッチ」に手を出せるようになった現代において、いったい何が稀少だというのだろうか?

 こうして新たな可能性が広がった現代の世界を前にして、さかのぼって問うべき問題がある。ある種の商品やサービスの生産と売買の合法性という問題だ。自由主義経済を唱える者が忘れがちなことがある。市場原理が何かしらの自律的調整を行っているのは確かだが、だからといって、社会がその代表機関を通じてゲームのルールを規定し、誰が取引に参加できるかを決められなくなるわけではない。これがなければ、唯一の掟は弱肉強食の掟でしかなく、人間は商品になり下がってしまう。どこまでも貨幣価値に換算され、商品として流通する存在になり下がってしまう。

 きわめて嘆かわしいことに、現在のグローバリゼーションの特徴となっている規制緩和の推進に当たって、この自明の事実が全く自覚されていない。それどころか、ある新たな世界規模のマーケットが生み出されようとしている。その全容はいまだつかみきれず、その存在を口にすることさえはばかられている。そのマーケットは、経済と金融のグローバリゼーションの暗黒の側面をなし、あまりの醜悪さに口をつぐみたくなるような真実を目の前に突きつけてくる。そのマーケットとは、犯罪によって徹底的に利用される法律のマーケットである。犯罪は、すべての人間社会と切り離せない現象であって、それぞれの社会には、その社会に見合った犯罪があるだけでなく、その社会に似た犯罪や、その社会の本質と化した犯罪が存在する。諸国の法律が瓦礫と化す中で、社会規範を別のレベルで再構築しようとすることもないまま、世界の大きさをした一つの社会が生み出されようとしている。そうして、市民の集う「アゴラ」は商人の行き交う巨大な「バザール」へと変わり、国家でさえ自国の規制法を競りにかけようと殺到する有り様だ。

 当然ながら、稀少なのは犯罪ではない。逆にそれを助長するもの、つまり法律にこそ稀少性がある。法律は三重の変化にさらされて、マーケットと化した。まず第一に、国家は他に先がけて、犯罪取引に対して国境を広く開放した。他に選択肢はなかったとも言えるだろう。まさにグローバリゼーションの先駆者だった1960年代の麻薬密売人が、世界で最も高価で高収益の商品を世界中で取引するための組織を作るに当たって、誰かに許可を求めることなどあるはずもなかった。

 だが、アメリカの取締当局を見舞った経緯にうかがえるように、歴史は皮肉に満ちている。70年代初め、ヘロイン市場の復活を心配し、問題の原因をもっぱらフランスの麻薬精製化学者と密売者に見出したアメリカ当局は、当時のフランス政府に対し、マルセイユを根拠地とした有名なフレンチ・コネクションを壊滅するようにと要求した。しかし、その結果は世界の麻薬密売ネットワークという癌細胞の転移を促し、シチリアのマフィアと北アメリカのマフィアに主導権を移すだけに終わった。こうして、犯罪組織ネットワークの中心は、自由貿易を賛美する経済大国アメリカへと移動した。物語の続きは、周知の通りだ。

 どんな教訓をこの物語から引き出すべきだろうか? 犯罪は、今や最も繁栄している事業の一つとなった。これを取り仕切っているのは、現代のあらゆるマネージメント手法を取り入れたプロフェッショナルたちだ。彼らは、表の経済の世界でかつてないほど柔軟性が称揚されるおかげで、世界中の経済・政治・社会の不均衡によって提供される稀少な資源を徹底的に利用できる。彼らはこれをタネとして事業を展開し、すばらしい利潤の源泉としてきた。現代の大規模犯罪とは、大ざっぱに言って、常に地球上のどこかにある政治的・経済的・社会的規制の不備を突き、その格差を利用する力のことだ。

 例えば、どこかの国で戦乱が続いていて、逃げ惑う住民が集団で国外逃亡をはかる事態になれば、マフィアが非合法移民の斡旋ネットワークを組織して、これらの住民から金を巻き上げようとする。例えば、どこかの貧しい国では、人々は麻薬による人工的な快楽におぼれ、少しでも苦しみを忘れようとする。そうならないですむ国があるものだろうか? 麻薬の虜となった何千、あるいは何百万人という中毒患者が落ち込んだ泥沼に、彼らを食いものにする世界の大富豪たちが群がってくる。例えば、貧富の格差や社会的な格差が激しいどこかの国では、最も貧しい人々はもはや自分の身体を売る以外に生きる道がなく、人身売買組織の手に落ちていく。そこでは、女性や子供の労働力、あるいは臓器が、最ももうかる取引品目になっている。

裏社会の規制緩和

 不幸にも、こういった現代社会の機能不全を挙げていけば終わりがない。搾取される貧困者のいる富裕な社会もあれば、搾取する富裕者のいる貧困な社会もある。そこでは、貧困が何ものにもまさる一次産品となり、社会から禁じられたことで価値を高める商品が生み出されていく。そして、遵守させることもできない禁止事項を掲げる法律が、こうした状況に加担している。

 法律逃れを商売とする者にとって法律を賑わうマーケットと化した他の二つの変化は、第一の変化に由来しており、これらもまた、今や恒久的な現実となった。経済の国際的な流れをコントロールできない国家は、したたかな策略家たちが決まって使うような手口を採用した。「謎があまりに大きすぎるので、それなら謎を作り出す側にいる振りをしてしまおう」というジャン・コクトーの由緒ある警句が、彼らの発想のもとにある。各国は、何の後ろめたさも感じさせない実務主義を掲げた米国のレーガンや英国のサッチャーを見習って、すみやかに貿易制限を和らげ、商品や資本の流通を促進した。こうして、じゃらじゃらと金の鳴る音に満足する国家は、彼らが本当のところ何を自由化したのかを考えようとしない。経済の国際化の先陣を切ったのは犯罪経済であり、稀少な財を利用した他の分野に比べてはるかに先を行っている。その事実を各国は単純にも忘れていたか、あるいは知りもしなかったのかもしれない。

 しかしながら、すでに現状はさらに一段階進み、その恐るべき影響がどこまで及んでいるのか、人々もようやく気付くようになった。各国は財やサービス、とりわけ資本の流れを管理できなくなったことに不満を抱き、金融の流れをうまくつかみ、最も収益性の高い経済活動を呼び込むために、自国を売り込もうとやっきになった。つまり、国境を越える貿易取引を妨げるような制約で、まだ残っていたものを撤廃したのだ。

 世界の無秩序に由来する資源を徹底的に利用する方法を短期間に独力で学んだ犯罪組織に対し、人々は、「法律の息の根を止める」彼らの商取引が、危機に瀕した社会に根を張る機会を提供しただけではない。彼らが不法に得たアガリをまっとうな経済や金融に還流させて、利益を手にする機会も提供した。フレッシュな資金に目のない経済や金融は、規制緩和が進むにつれて、その資金の出所には注意を払わなくなってきている。

 第三の段階は最も倒錯したものだが、前の二つの段階の沿線上にあるものでしかない。これなしには、金融と経済の世界的な規制緩和も、ここまでの飛躍を遂げることはできなかっただろう。それが何かと言えば、非居住者に特典を与えるオフショア金融センターの発展である。これは銀行や税金の天国として知られていたが、次いで警察や司法の面でも、世界中のすべての法律を注意深く潜り抜ける仕組みを作ることのできる天国となった。何とも矛盾したことに、領土支配によって規定される主権という、消滅の途上にある世界の掟を利用することで、オフショアが世界の経済と金融を完全に仮想化しているのだ。

 もしも国際自由主義に付きもののオフショア金融センターが脱税に役立つだけであれば、合法経済に対する不正は、重大ではあっても限られたものにとどまるだろう。先進諸国の場合は、財源の損失によって直接の被害を受けても、損失を抑える策を容易に講じてくることができたという考え方も成り立つ。

 しかし、ここでの悪は全く違った様相を帯びる。オフショアが繁栄してきたのは、そこの国家にとって、直接の利益が危うくなるわけではない上に、失うものよりも得るものの方が大きいからだ。そうした国家は、最も繁栄する国際取引の構成要素として自国の主権を利用し、「脱主権化」の動きをさらにもう一段階前に進めた。事実、そこで制定された法律の唯一の目的は、動機はどうあれ、他の国々の法規範から逃れる可能性を提供することにある。

倒錯した主権原則

 奇妙なことに、世界の中で最後まで主権を押し立てている領土、つまり制裁を受けることなしに国際社会に対して自国の法をもって対抗できている領土とは、ある時は国際的に主権が不明確だったり法的に異論のある極小国家であり、またある時は、国際的に承認された国の一部をなし、まさしくそれを狙って資産を隠匿しに来る事業活動に保護を与える領土だという事実がある。介入権を主張して地域紛争を解決しようとする動きがある一方で、国家主権を金に換えている国や、最高の買値をつけてくれる者に自国の法律を売り渡す国々については、国家主権原則は神聖だとして諸国は何も口出ししようとしない。

 帳簿のつけかえ一つで、このような世界の経済と金融のブラックホールに資産や事業を放り込むことができるのも、母国の共謀があればこそだ。では何故それらの国々は、「ならずもの国家」や「ごろつき領土」が恥も外聞もなく振りかざす主権原則の最悪の倒錯に、いとも簡単に順応してしまったのだろうか? 何故なら、そこで盾にされているのが、事実上は完全にすたれてしまったとはいえ、国際関係の基本とされている主権という規範にほかならないからだ。

 この虚構は、結局すべての国にとって都合がよいものだ。というのも、うかうかとグローバリゼーションに飛び込んでしまった者たちに向かって突きつけられた果たし状をかわすことができるからだ。グローバリゼーションは、気狂いじみた規制緩和の上に成り立っている。時流に逆らおうとするなら、危険を冒して新しい世界秩序を作っていかなければならず、考えただけで身の毛もよだつような困難が予想される。

 それ以外は何をしても、人の目をくらます手段でしかない。国際的な首脳会議が開催される度に、各国の元首や首相が儀式的に声明を繰り返すだけでは、何の解決にもならない。何故なら、誰も本質的な問題点には触れようとしないからだ。国際的なマネーロンダリング、贈賄、不正、そして密貿易への対策の成果といったら、笑うしかないぐらい情けないもので、ありとあらゆる所で起こっている犯罪の内のほんのわずかな一部についてでしかない。年間数千億ドルに達する国際犯罪の利益は、悠然と表の経済と金融の世界に還流しているが、誰もそれを気に病んではいない。

 当然のことながら、国家や警察は真っ向から反駁する。彼らは成果の例として、最近できあがったOECD(経済協力開発機構)の外国公務員への贈賄防止に関する条約や、G7国際金融作業部会(FATF)の40項目からなる勧告に従った国の増加など、いくつかの文書の名前を挙げている。しかし、このような目立たない進歩は、ある鉄則を乗り越えることができない。つまり、抑止する手段を持たないまま禁止だけしても、何もしていないのに行動を起こしているように見せかける以外に、何の意味もないということだ。

 別のところでは助長もしている犯罪に対して漫然とした対策を展開しても、たまたま捕まった何人かのスケープゴートを処罰できるのが関の山だ。彼らが処罰に値するのはもちろんのことだが、 彼ら以外の犯罪者はおかげで追及を受けることもなく、悠々自適の日々を送っている。

 だからといって、犯罪者を追及する努力をあきらめるべきだというわけではない。その逆で、今日われわれが何もしないのは、それに必要な方策がないからである。

 対策を打つためには、グローバリゼーションの結果を考慮しつつ、悪徳国家とその公私にわたる共犯者に対して、国際社会が最小限の法治国家の規範を強制する権利を持っていることを再確認しなければならない。しかし、そのためには、法律マーケットの恥ずかしげもない徹底利用から、すばらしい利益を得るようなことはあきらめなければなるまい。


(2000年4月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Ando Rikako + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)