エクアドル社会にたまったマグマ

ホセ=マリア・トルトーサ(Jose-Maria Tortosa)
スペイン・アリカンテ大学教授

訳・ジャヤラット好子

line
 経済を「ドル化」し、経済危機のツケを貧困層に回したマウァ大統領の政策は、数十人の進歩派の士官、強力な先住民運動組織、そして何人かの野党政治家を主体とするクーデタを招く結果を導いた。マウァ大統領は1月21日に退任させられ、代わってノボア副大統領が大統領の座に着いた。ところが、新大統領の掲げた政策はといえば、マウァ大統領がやりかけたものと何の変わりもなかった。反乱勢力によって置かれた「国家救済評議会」が崩壊し、事態がこのような驚くべき収束に向かった背後には、軍の最高司令部と米国の強力な圧力を見て取ることができる。[訳出]

line

 人口1200万人のエクアドルの国名は、1830年の独立の際に決められた。その数年前にフランス・スペイン合同科学遠征隊がやって来て、ここに赤道を引いたことが由来になっている。エクアドルの名が選ばれたことによって、国名がキトではけしからんというグアヤキルとクエンカの住民の不満は回避された。もとより先住民をカヤの外に置いた組織「キトの組合と家長」は、国民統合を優先してエクアドルの名に同意する決定を行った。後にエクアドルが直面することになる問題の数々が、この決定にすでに象徴的に表れていた。 1999年の終わりから2000年の初めにかけて、エクアドルで起きた二つの別々の出来事が世界各地で大きく報道された。まず、相次いで火山が噴火した。グアグア・ピチンチャ火山の噴火で首都キトには警戒警報が発令され、トゥングラウァ火山の噴火によって観光都市バニョスから人影が消えた。しかし、それにもましてエクアドルの名を諸国に駆けめぐらせたのは、2000年1月に起きた一連の事件だった。この月、経済のドル化政策が打ち出され、結局は未遂に終わったクーデタを受けて、軍人・先住民・政治家による束の間の三頭体制がしかれた。そして最終的には、マウァ大統領がノボア副大統領に取って代わられる顛末となった。

 火山になぞらえてみるといいかもしれない。火山活動を理解するには地殻プレートの衝突を理解する必要があるように、エクアドル社会の噴火もまた、社会の「プレート」の衝突として理解しなければならない。

 実際、少なくとも1979年に民主政治が回復して以来、この「噴火」がますます頻繁になっている。最近に限っても、すでにボルハ政権時代の92年に先住民の「蜂起」が起こり、94年にも同様の事件が繰り返されている(1)

 97年2月になると、民衆が結集してブカラム政権を倒し、大統領は亡命、アラルコン大統領代行による暫定政権が成立した。昨年もまた、同様の結集力の発揮された年となった。3月にはエクアドル全土を麻痺させるほどの運輸機関のストライキが発生し、7月にも再びストが発生、続いて先住民による「キト占領」が行われ、終日ゼネストが打たれた。二度目の「キト占領」は、翌1月に行われた。これはエクアドル先住民連合(Conaie)によって率いられ、軍と野党の一部の支援を受けていた。この社会反乱の背後には、フジモリを政権につけたペルーや、チャベスを政権につけたベネズエラ(2)と共通した国情がある。

 問題の発端は、惨憺たる結果を招いた「ふざけた政治」やその小細工とは無関係に、エクアドルの経済状況に求められる(3)。対外債務は140億ドルに達し、国内総生産(GDP)と同じ規模になっている。国家予算が教育に13%、保健衛生に3%しか割り当てられていないのに対して、40%が対外債務返済に消えていく。そのうえ政府は国際通貨基金(IMF)で定められた「処置」に従わなければならない。インフレ率は99年に60%に達し、経済は7%縮小、現地通貨スクレの切り下げが進んだ。98年8月に1ドル=5000スクレだった交換レートは、2000年1月には1ドル=25000スクレとなり、これを固定相場として「ドル化」が実施された。

経済状況の悪化

 現在の経済危機の原因を知るには、植民地時代の経済状況にまでさかのぼる必要はない。エクアドルにとっては「石油ブーム」、欧州にとっては「石油危機」の時代だった70年代初めに立ち戻ってみよう。この国はまだ軍事独裁体制下に置かれ、債務の悪循環に陥ろうとしていた。オイル・ダラーのバブルにわきたつ銀行が黙ってこれに加担するなかで、エクアドルの債務レベルはやがて極限に達した。そして今度は民主主義体制のもとで、今回の対外債務危機へと至った。

 実際には、対外債務危機といっても、要するに既存の債務を返済するために新たな債務が発生したということだ。それは、銀行が保護される一方で、「清算」のための課税措置が貧困層を直撃することを意味した。98年にマウァ政権が発足する以前、エクアドルの対外債務支払に対して何度もモラトリアム(支払い猶予)が与えられた。マウァ大統領時代になると財政危機は極限に達した。97年と98年の石油相場下落は、歳入の半分以上を原油輸出から得ている国家の財政にとって、致命的な一撃となった。国民の納税意欲が低いために、その穴を所得税で埋めることもできなかった(4)。政府は均衡財政を回復するために補助金を削減し、社会福祉を減らした(とはいえ、名目的な「貧困クーポン」の発行は続けた)。政府はさらに貧困層、特に「インフォーマル」と言われる部門の零細店主を対象とした新税を創設した。そのうえ、99年3月にはガソリンを174%も値上げした。

 エクアドル社会の怒りは高まり、金融制度は徐々に混乱に陥っていった。IMFの自由主義的な指示に熱心に従おうとする政府は、破綻しかけた銀行の救済に奔走した(だが救いきれず、6つの銀行が破産した)。同じ頃、政府は銀行の個人預金の一部凍結を命じ(99年3月)、さらに9月には、国家債務の一部(5000万ドル)の支払い停止を宣言した。こうした混乱のなか、マウァ大統領はまだ救えるものを救うための最後の希望の綱として、貧困層を見捨てたドル化法案に頼ろうとした(5)。 要約すると、エクアドル経済は、軍事政権と政治家によるお粗末な運営のせいで破綻したのだ。これを悪化させたのが、エクアドルのことより北米の銀行の安泰を気にする外部の「監督役」だった。そして、指導者階級は自国をまるでアシエンダ(大農園)のように見なし、その所有権を握っているかのように振る舞っている。他方、Conaieなどの反政府組織は、口先では大きな目標を語るくせに近視眼的な見方に偏り、とかく行動に走りがちである。こうした全てが、すでに始まっていた二極分解を加速していった。

 エクアドルの貧困化は、国家による経済介入の機会を減らす新自由主義政策によって、さらに加速された。これは世界銀行の目にも留まっている。世銀によれば、一日一人一ドルというのが貧困か貧困でないかを分かつ基準となるが、その基準を下回るエクアドル国民が46%ほどいる。

 しかし、この疑わしい指標を用いる代わりに、食糧の確保、相応な住居、こざっぱりした衣服、人身の安全といった基本的生活条件への不満を基準とするならば、貧困者の数は80%ということにもなりかねない。

 さらに豊かになる富裕層とさらに貧しくなる貧困層の間で、減り続ける中流階級は苦悩を深め、政治的に利用されやすくなっている。そして貧困層、特に先住民の絶望は、もはや極限にまで達している。

米国の影響力

 不幸なことに、社会の「プレート」は目に見えないところにも存在する。これまで述べてきた社会的亀裂と結びつきながらも独自の論理で動いているのが、先住民とクリオーリョ(白人特権階級)の間にある亀裂である。さらに、両者の間には複雑な立場のメスティーソ(先住民と白人の混血)がいる(6)。こうした亀裂が植民地時代に生じたことはよく知られているが、先住民の状況は独立当時からほとんど変わっていない。彼らはエクアドル独特の封建遺制ウァシプンドのせいで社会の最下層にとどめられている。インディオ込みで農地を売買する慣行があったほどだ(例外的とはいえ、こうした売買が今でも行われることがある)。先住民が投票権を獲得するのは、やっと20世紀後半になってからだ。

 ノーム・チョムスキーが命名した「500年帝国」の治世下で、身体的に虐待され、教育も受けられず、経済的に搾取され、民族として罵倒されてきたインディオたちは、次第に自らの置かれた状況を自覚するようになった。そこにはカトリック教会の力も働いていた。こうした意識は、Conaieなどの組織や、パチャクチク党のような政党への直接参加を通して引き継がれ、表面化していった。先住民でパチャクチク党に所属するニナ・パカリ議員は、マウァ政権のもとで国会の副議長へまで昇りつめた。

 さらにもう一つ、同じく植民地時代にさかのぼる亀裂が存在する。シエラ(国の中央部、標高 2000メートル以上の山岳地帯)とコスタ(太平洋沿岸地帯)の間の亀裂である。以前に何度もコロンビアとペルーの争いの対象とされたコスタは、今日では産業活動の中心地となり、エクアドルの主要輸出品であるバナナの生産やエビの養殖(7)などを行っている。コスタはシエラが軍、政府、教会の権力を一手に握り、コスタの正当な要求に応じないと言って非難している。実際、エクアドルが激動のさなかにあったこの1月23日、グアヤス州(コスタ)において自治の是非を問う住民投票が予定通りに実施され、棄権率の高さはさておき、自治賛成の結果が示された(8)

 軍は、きわめて独特の集団を形成している。その社会的な出身母体はもはや特権階級ではなく、今日ではメスティーソをも取り込んでいる。彼らは根本的に「山岳派」であり、企業、ホテル、大学といった経済的権力を獲得している。さらに、彼らにとってペルーと戦争していた頃は栄光の時代だった。それが98年に終結し、99年にフジモリ大統領とマウァ大統領の間で和平協定が調印されると、彼らの栄光は過去のものとなった。「平和の回復」の当然の帰結とはいえ、軍事予算を削ったマウァ大統領(9)を、参謀本部は許しはしないだろう。

 エクアドルは、依然として米国の強力な影響下に置かれている。米国の意向は新たな「総督」となった「大使館」を通じて示され、マンタの町には米国が自由に使える基地が置かれている(10)。そして、エクアドルのバナナ園や油田は、多国籍企業の支配下にある。指導者階級は民兵を召集できる(去年、シエラのピチンチャ州とコスタのエスメラルダ州で軍事訓練キャンプ設営の噂が流れ、グアヤキルの町では「死の部隊」あるいは同様の民兵集団が組織されたとの噂が流れた)かもしれないが、不満を募らせた貧困層がゲリラに走るか、新たな結集を呼びかける可能性もある。2000年1月のクーデタ失敗のあと、Conaieのリーダー、アントニオ・バルガス氏が呼びかけたように。

 先住民に対してひどい扱いを重ねることはできても、それを永久に続けることはできない。貧困層の抑圧はいずれ、これ以上続けても利益にならないという状況(修正主義)に至るか、あるいは、これ以上は不可能という状況(革命)に至ることになる。そして、ふつふつと沸き立つこの奔流の中で、シエラとコスタの間の緊張が政治家に利用されて、新たな驚天動地をもたらすことになるかもしれない。次なる噴火の日は近い。もし、社会の亀裂を抑える対策が何もとられないならば。

(1) モーリス・ルモワーヌ「エクアドルのインディオのきわめて政治的な反乱」(ル・モンド・ディプロマティーク1994年11月号)参照
(2) イニャシオ・ラモネ「変革を目指すベネズエラ」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年10月号)参照
(3) ザ・ガーディアン・ウィークリー紙(ロンドン)2000年1月27日付
(4) エル・コメルシオ紙(キト)2000年1月27日付
(5) すでに経済はドル化していた。2000年1月5日現在、国内債務の45%はすでに米ドル建てだった。米国の経済学者ポール・クルーグマンは、エクアドルのドル化が次の金融危機のたたき台となると見ている(<< Crisis planners will watch 'dollarized' Ecuador >>, International Herald Tribune, Paris, 20 January 2000)。
(6) よく、エクアドル人口の30%が先住民だと言われる。この数字を大げさとする人類学者もいるが、Conaieは先住民が人口の45%を占めると言っている。
(7) もう一つの主要輸出品は石油であり、第三の地域であるアマゾンに産出する。
(8) エル・ウニベルソ紙(グアヤキル)2000年1月24日付参照。ノボア氏はコスタの利益を代表していると言われる。
(9) マウァ大統領へのインタビューを参照。El Pais (Madrid), << Fui enganado por los generales, ese fue mi error >>(将軍たちに謀られたのは私の失策だった), 26 January 2000.
(10) オイ紙1999年12月22日付参照。「大使館」の優先課題であるコロンビア・ゲリラへの対策(マンタ基地の目的)については、エル・ティエンポ紙(ボゴタ)2000年1月19日付に掲載されたオルブライト米国務長官の声明を参照。


(2000年3月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

line
表紙ページ 本紙の位置づけ 有志スタッフ
記事を読む 記事目録・月別 記事目録・分野別
メール版・お申込 読者の横顔
リンク(国際) リンク(フランス)