外国人と参政権

モニク・シュミリエ=ジャンドロー(Monique Chemillier-Gendreau)
パリ第七大学法学部教授

訳・山崎裕子

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 フランスでは今、欧州連合(EU)加盟国以外から来た在留外国人の参政権についての議論が、またもや沸き起こっている(1)。この議論は、体制順応主義の根強さ、なかでも、民主制の問題がはまり込んだ論理の行き詰まりを、改めて浮き彫りにする。政治の代表ということ、つまり、決定過程への参加ということに関し、個人の自由と全体の平等を同時に実現させながら自由と平等の方程式を解くには、どうしたらよいのだろうか。

 国家を枠組みとして築かれた民主主義思想、特にフランスの民主主義思想では、政治的権利が国籍に結びつけられる。本国民である(でなければ、その国が示す条件を受け入れて申請することにより国民となる)ことが、まず第一に来る。すると、選挙に参加する権利などの政治的権利を付与される。政治的権利が市民権を形作っていく。この考え方に立つと、市民権の前に国籍が来るのは明らかだ。

 様々な国の人口には、その国に長期的に定着した外国人が含まれる。彼らの中には、受け入れ国の国籍を求めない者もいれば、望んではいるがいまだに取得していない者もいる。長い間、そういう事実は問題とされてこなかった。しかし、市民権というものが少しずつ積極的に捉えられるにつれ、彼らの生活に関わる決定を下す立場の者の選挙に彼らを参加させることが考えられるようになった。こうした考えは80年代から話題になっているが、いまだに解決を見てない。在留外国人に地方参政権を認めることにより、国民と非・国民の間に引かれた不可侵のボーダーラインを越えたのは、オランダやアイルランド、デンマーク、スウェーデン、ルクセンブルクといった幾つかの先進国だけだった。

 そして、EU加盟国は1992年2月7日のマーストリヒト条約によって、加盟国出身の在留外国人に地方参政権を認め合うことを約束した(2)。これを実行するために憲法を改正しなければならなかった加盟国もあった。フランスで採択された憲法改正条文では、その他の外国人にまで効力を拡げないように、改正範囲が注意深く制限された(3)。その国で生活をし仕事をしているすべての外国人に地方参政権を認めるよう、欧州議会が1989年2月14日の決議で勧告したにもかかわらず、EUとその構成国は聞く耳を持たないままだった。

 この件について、ベルギーとドイツでは定期的に議論が起こっている。イタリアとフランスでは、現在の与党が政権に就く前に示した公約が、現在まで実現に至っていない。政権に就いてから2年を経たフランスの左翼政権は、先ごろ、範囲を狭めて改めて約束を行った。地方選挙に限定された選挙権が、10年の滞在許可証を保持する外国人にのみ与えられることになるだろう。議論は再燃したが、いつまでに決着を付けなければいけないかは決まっていないため、右派勢力はかねてから問題にしている政策分野について足場を固めることができる。左派の一部にも、似たような問題意識がないではない。

 人間社会は現在の組織段階において、国民国家(まれに複数民族国家)に分割されており、その根本には包摂と排除の原理がある。これは果たして自然な組織であり、民主制が機能するための枠組みを取りしきるべき唯一の組織なのだろうか。この組織では、国家が優越を与えられ、誰を国民として認めるかを(時に独断的に)指し示す。こうして、民主制はそれぞれ国別のものとなる。外国人は滞在期間がどのくらいであろうと、また、生産活動における彼らの結びつきの深さや役割の重みがどうであろうと、そこから排除される。

 しかし、語本来の意味で都市とは政治都市であるから(4)、近隣民主制といった思想が徐々に芽生えてきている。すべての住民が国籍にかかわらず、地方選挙に参加できるようにすべきだろう。そして、地域共同体が、そこで生活するすべての住民に拡大されるべきだろう。現在議論されている選挙法改革の意義はそのようなことにある。しかし、そこで言われる譲歩は限られ、そこで示される提案は政治的正統性の伝統モデルを疑問とすることがない。

世界市民権

 国民共同体は、国家によって厳しく入場を規制される象徴空間にとどまっている。そこに中身のある議論を求めてみても、行き当たるのは権力の関係でしかない。すべての外国人とまでは言わなくても、国民や他の外国人と共に生活する外国人が、政治決定から排除されているのはどうしたわけなのだろうか。なぜ彼らは、地方選挙には(10年の滞在許可証を持つ外国人に限って)参加できても、その他の選挙には参加できないことになるのか。先進国は単に経済的理由のために貧しい国々や旧植民地の国々の人々を使い回し、ひいては年金制度を維持するために(なるべく若い労働力を)呼び込む一方で、政治ゲームからは排除しようとしているだけではないのか。 このような「民主制」が、みなで求めて分かち持つ自由という本来の民主制の概念を葬ってしまうことまでは、思いが至らないのだろうか。在留外国人への地方参政権の拡大をEU加盟国出身者に限定した事実により、ヨーロッパが政治関係について、選民どうしでしか意味を持たない貴族主義的な捉え方をしていることが示された。そのようなことでは、より一般的な問題提起が出てくるのも当然だろう。

 本物の民主制を望むなら、問題を全く逆の方向から捉えなくてはならない。投票が民主制のバロメーターであるためには、どういう条件が必要か。それぞれの地域ごとに代表者を選ぶために招集されるのは、どのような人々か。争点によっては、それぞれの地域に応じた決定が必要とされることも確かである。例えば、サン・ディエ市(北東部ヴォージュ県)の住民がディナン市(北西部コート・ダルモール県)の物事に口を出さないのは当然である。しかし、サン・ディエの住民で、サン・ディエの物事から排除された人がいてよいはずがない。こう考えてみると、すべての住民が(例外なく)地方選挙で投票することは必然である。生活や仕事、交通、社会設備などの条件は、すべての住民に明らかに関わり、これらは地方レベルの決定に左右される。マーストリヒト条約による改革で、特定の人々について国籍をどうこういう議論が終わりとなった今や、すべての人々についても同様の議論を終わらせることが急がれる。

 しかし、国民への選挙権の限定に関する議論が地方選挙についてはなくなるとしても、その他の選挙についても検証しなければならない。フランスに住み、フランス人と同様に公害に苦しみ、生命倫理や自由、商業に関するフランス法を適用され、財政法の文言に従ってフランス国家に税金を払っている外国人が、同じ土地に住んでいるフランス人と同じく彼らにも関わるはずの国の決定メカニズムから、どのような理由で除外されるのだろうか。答えが恐いから質問もいけないとでもいうのだろうか。

 国というものは選挙権についてコチコチの基準がなければ滅びるほどヤワではない。人類の歴史がそれを十二分に示している。アイデンティティーが複数化の度合いを強める以上、それを独占しようとする厳格な原理を軸として政治社会を組織することは不可能となる。外国人が生まれ故郷への愛着から母国の選挙に参加し、移住先の政治への関心からフランスの選挙に参加することは不謹慎なことだろうか。こうした正当な二重参加は今でも抵抗に遭っているが、強く意識される前に時代の方が先に進んでしまうかもしれない。

 というのも、私たちに関わる政治決定のかなりの部分が、自治体や地方、国家の手中にはなく、経済や制度のトランスナショナルな決定要因によって導かれているからだ。他方では、こうした流れに呼応して世界市民権が生まれようとしている。その動きはシアトルで見られた。社会労働や社会的要求の概念が全世界に拡大しつつある以上、当然の動きではないだろうか。

 以前なら、ある生産活動に携わる人々をひとまとめにし、彼らの利害のバランスを図る地方の決定機関、場合によっては国の決定機関を指定することができた。しかし、今日では社会労働の国際化が不可逆的に進んでいる。市場に出現する製品やサービスに携わる人々は、ますます多様になる「国」から出てきていて、連帯も敵対関係も判然としない複雑なものとなっている。国への帰属が以前より相対的になると同時に、あらゆる排除を排した「人間」という自覚が生まれつつある。無益な改革を急ぐ必要はないが、急を要する改革もある。すべての外国人に地方参政権を付与する改革は、民主制を息づかせる上で有用だろう。そして、さらに先に進む日が来ることを、私たちはひとまず考えてみなければならない。

(1) 「シュヴェーヌマン内相、外国人の選挙権に賛成」(ル・モンド紙1999年12月14日付)などを参照
(2) 第II編8B条「構成国に居住する連合の市民であって、居住国の国民でないすべてのものは、そのものが居住する構成国の地方選挙において当該国の国民と同一の条件の下に選挙権及び被選挙権を有する」
(3) 1992年6月25日の憲法改正による新88条の3
(4) 欧州諸語の「政治」の語源はギリシャの「ポリス」にある。[訳註]


(2000年1月号)

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